『中論』

テキスト

 Poussin ed.
 J. W. de Jong ed., Mūladadhyamakakārikāḥ, Adyar Library and research centre, 1977
 Anne MacDonald, Revisiting the Mūlamadhyamakakārik: Text-Critical
 中村元訳

  • チベット語訳

註釈

 buddhapalitā:Shaoyong ed.
 prasannapadā:Poussin ed. Vaidya ed.
 青目註:大正1564; 中華627
 般若燈論:大正1566; 中華628
 安慧註:卍藏1323; 中華1622
 吉蔵疏:大正1824; 中華780
 དབུ་མ་རྩ་བའི་འགྲེལ་པ་ག་ལས་འཇིགས་མེད། 東北3829 金写3228
 དབུ་མ་རྩ་བའི་འགྲེལ་པ་བུདྡྷ་པཱ་ལི་ཏ། 東北3842 金写3241
 དབུ་མའི་རྩ་བའི་འགྲེལ་པ་ཤེས་རབ་སྒྲོན་མ། 東北3853 金写3252
 ཤེས་རབ་སྒྲོན་མ་རྒྱ་ཆེར་འགྲེལ་པ། 東北3859, 1, 2, 3  金写3258, 1, 2, 3
 དབུ་མ་རྩ་བའི་འགྲེལ་པ་ཚིག་གསལ་བ། 東北3860 金写3259
 マチャ・チャンツォン(-1185)註
 レンダーワ(1349-1412)註
 ツォンカパ(1357-1419)註
 ロントゥン(1357-1419)註
 コラムパ(1429-1489)註
 ミパム(1846-1912)註


中観仏教について語ろうスレ
409 名前: 承狂 ◆TptLNQXPVWuJ Mail: 投稿日: 2009/07/03(金) 00:39:54 ID: JTou1syU
プトガラの無い輪廻転生って法を中論以外でもいいから出してみ?(笑)
無自性を、相依性を、そして「縁起」を、
ひっくり返せるならひっくり返してみな?(笑)


(^。^)ついでにちょっと真似してみる♪
27章三節に曰く♪
「過去世において、我は有った」というこのことは成立しない。
何となれば前の生涯で有ったものは、そのまま〔われ〕では無いからである。

この章が判るなら、輪廻転生するとは言えない筈だがな♪(笑)

先ず、本文と蔵訳漢訳を見てみましょう。

abhūm atītam adhvānam ity etan nopapadyate |
yo hi janmasu pūrveṣu sa eva na bhavaty ayam || MMK 27.3 ||
འདས་པའི་དུས་ན་བྱུང་གྱུར་ཞེས། །བྱ་བ་དེ་ནི་མི་འཐད་དོ། །
སྔོན་ཚེ་རྣམས་སུ་གང་བྱུང་བ། །དེ་ཉིད་འདི་ནི་མ་ཡིན་ནོ། །
T1564_.30.0037a07:     過去世有我 是事不可得
T1564_.30.0037a08:     過去世中我 不作今世我
「私は存在した、過ぎ去った時に」ということはありえない。
[なぜなら]何らか過去世に存在したもの、それ自体がこれではない[からである]。

これは輪廻がないのではなく、我、言語習慣によって「私」と
仮説され指示される実体・実在が無いと言っているのです。
その根拠は、同一ではないこと。縁起するなら一瞬も同一なものがないので、
過去世でなく一瞬前の「私」も同様です。
逆にこの偈は、janmasu pūrveṣu 過去世というように転生としての輪廻が
前提となっていることが分かります。
これでも納得しないでしょう。ですから諸註で確認してみましょう。
先ず、自註とされる『無畏註』は次のように

ཟག་པ་ཐམས་ཅད་སྡོམ་པའི་རྣམ་གྲངས་ཞེས་བྱ་བའི་མདོ་སྡེ་ལས་གསུངས་པ། བདག་སྔོན་འདས་པའི་དུས་ན་བྱུང་བར་གྱུར་ཅེས་བྱ་བ་དང་།  
བདག་སྔོན་འདས་པའི་དུས་ན་བྱུང་བར་མ་གྱུར་ཅེས་བྱ་བའི་རྒྱུ་འདིས་འཇིག་རྟེན་རྟག་པ་ལ་སོགས་པར་ལྟ་བ་གང་ཡིན་པ་དེ་དག་ནི་སྔོན་གྱི་མཐའ་ལ་བརྟེན་པ་ཡིན་ནོ། །
བདག་མ་འོངས་པའི་དུས་གཞན་དུ་འབྱུང་བར་འགྱུར་ཞེས་བྱ་བ་དང་། བདག་མ་འོངས་པའི་དུས་གཞན་དུ་འབྱུང་བར་མི་འགྱུར་ཞེས་བྱ་བའི་རྒྱུ་
འདིས་འཇིག་རྟེན་མཐའ་ཡོད་པ་ལ་སོགས་པར་ལྟ་བ་གང་ཡིན་པ་དེ་དག་ནི་ཕྱི་མའི་མཐའ་ལ་བརྟེན་པ་ཡིན་ནོ། །
དེ་དག་ནི་མི་འཐད་དེ། རིགས་པ་གང་གིས་ཤེ་ན། བཤད་པར་བྱ་སྟེ། 
『有漏一切戒の別名経部』(不明)に説かれるのは、「私は過ぎ去った時に存在していた」ということや、
「私は過ぎ去った時に存在しなかった」ということ、
これは何らかの世間は常住などの見解である。
それらは過去という極限(辺)に依拠しているのである。
「私は未来に別のものとして存在するだろう」ということや、
「私は未来に別のものとして存在しないだろう」ということ、
これは何らかの世間は極限(辺)があるなどの見解である。
それらは未来という極限(辺)に依拠しているのである。
これらは不合理である。どんな論理によってかというなら、次のように説明される。

そして、27-3以下が引用されます。その註釈は、次のように。

བདག་སྔོན་འདས་པའི་དུས་ན་བྱུང་བར་གྱུར་ཅེས་བྱ་བ་དེ་ནི་མི་འཐད་དོ། །
ཅིའི་ཕྱིར་ཞེ་ན། སྔོན་གྱི་ཚེ་རབས་སུ་གང་བྱུང་བར་གྱུར་པ་དེ་ཉིད་ད་ལྟར་གྱི་བདག་འདི་མ་ཡིན་པའི་ཕྱིར་རོ། །
དེ་ལ་འདི་སྙམ་དུ་གལ་ཏེ་སྔོན་གྱི་ཚེ་རབས་རྣམས་སུ་གང་བྱུང་བར་གྱུར་པ་དེ་ཉིད་ད་ལྟར་གྱི་བདག་འདི་ཡིན་པར་གྱུར་ན་དེའི་ཕྱིར་སྐྱོན་ཅིར་འགྱུར་སྙམ་དུ་སེམས་ན་དེ་ལ་བཤད་པར་བྱ་སྟེ། 
གལ་ཏེ་སྔོན་གྱི་ཚེ་རབས་རྣམས་སུ་གང་བྱུང་བར་གྱུར་པ་དེ་ཉིད་ད་ལྟར་གྱི་བདག་འདི་ཡིན་པར་གྱུར་ན་དེ་ལྟ་ན་
ཉེ་བར་ལེན་པ་ཐ་དད་པར་མི་འགྱུར་བ་ཞིག་ན་ཉེ་བར་ལེན་པ་ཐ་དད་པར་ཡང་འགྱུར་ལ། ཉེ་བར་ལེན་པ་མ་གཏོགས་པར་བདག་ཡོད་པར་ཡང་ཐལ་བར་འགྱུར་རོ། །
དེ་ལ་ཉེ་བར་ལེན་པ་མ་གཏོགས་པ་ཁྱོད་ཀྱི་བདག་དེ་གང་ཞིག་ཡིན་པར་སྨྲ་བར་ནུས་སམ། ཁོ་བོས་ནི་རྣམ་པ་ཐམས་ཅད་དུ་ཡང་མི་འཐད་པར་ཤེས་སོ། །
「私は過ぎ去った時に存在した」ということ、それはありえない。
なぜなら、何らか過去世に存在したもの、それ自体が現在のこの私ではないからである。
もし、何らかの諸過去世に存在していたもの、それが自体が現在のこの私であるなら、
どんな欠陥になるのかと思うなら、次のように説明される。
もし、何らかの諸過去世に存在していたもの、それが自体が現在のこの私であり、
且つ、[過去世に存在していたものと]同じ取蘊が消滅したなら、
[過去世に存在していたものと]別の取蘊になっても、取蘊以外に我があることにもなってしまう。
それについて、取蘊以外に貴方の我が何らかであると言うことができるとしても、
私にはどんな形でも、ありえないと分かる。

取蘊、つまり我・私として仮設される五蘊は、無常で一瞬として同じものはありません。
仮設の我以外に実体としての我があるとするなら、
常に生滅して変化する五蘊以外のなにか恒常なものになりますが、
そのようなものはありえないということを説いています。
もちろん、転生としての輪廻については前提にこそなれ、
無いなどとは言われていません。『ブッタパーリタ註』も全く同じです。
テキスト的な問題は今回は立ち入りません。


次に『青目註』を見てみましょう。

T1564_.30.0037a19: 我於過去世有者。是事不然。何以故。先世
T1564_.30.0037a20: 中我不即作今我。有常過故。若常則有無
T1564_.30.0037a21: 量過。何以故。如人修福因縁故作天而後
T1564_.30.0037a22: 作人。若先世我即是今我者。天即是人。又
T1564_.30.0037a23: 人以罪業因縁故作旃陀羅。後作婆羅門。
T1564_.30.0037a24: 若先世我即是今我者。旃陀羅即是婆羅門。
T1564_.30.0037a25: 譬如舍衞國婆羅門名提婆達。到王舍城
T1564_.30.0037a26: 亦名提婆達。不以至王舍城故爲異。
「私は過去世に存在した」ということ、それはありえない。
なぜなら、前世の私は、現在の私ではないからである。そして常見の過失があるから。
もし、[我・私が]恒常なら無量の過失がある。なぜか。
ある人が福徳を積んだ因縁によって、神になり、その後で人になる場合、
もし、前世の私が現在の私であるなら、神は人である。
また、ある人が悪業を積んだ因縁によって、チャンダーラになり、その後でバラモンになる場合、
もし、前世の私が現在の私であるなら、チャンダーラはバラモンである。

以上で十分だと思うので以下は省略します。問題となるのは恒常な我、不変の実体・本質であり、
輪廻や転生は、当然の前提とされていることは『無畏註』と同じです。
最終更新:2009年07月06日 23:12
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