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 カラン、とドアにつけられた鈴が新たな客を知らせる。
「いらっしゃいませ、って弟者?」
「やあ、ガナー。明けましておめでとう」
 受付に立っていたガナーに、軽く一礼する。腰を上げた瞬間、荷物の重みが後ろにかかり、よろめいた。
「ちょっと、大丈夫?」
 ガナーはそう言いながら湯気が立っているタオルを差し出す。
 突然の登場のためだろうか、目が大きく見開かれている。家に電話さえあれば、驚かせずに済んだのかもな。
 わざと間をおいてから、熱々のタオルを受け取った。
「何が? 雪なら毎日かぶってるし、寒さにも強いぞ」
「いや、そうじゃなくて。まだ三十日なのよね……」
 一回、小さく誰かが咳き込んだ。
 客の笑い声が頭の中でリピートされる。
「……もう客が居るのか」
 隣部屋の食堂には、すでに数名の団体が座っていた。テーブルの上には、手作りらしい、おにぎりが置いてある。年は高校くらいだろうか。
 ぼーっ、と考えながら眺めていると突然一人の女と目が合った。驚きの目でこちらを見ている。変に思われるといけないので慌てて目を逸らした。
「何? 好みな子でもいたの?」
「いや。ただ、妹と似てるやつが一人いたからさ」
「妹?」
「あぁ。今は高校ぐらいかな。たった一人の生きている家族だよ」
 俺の兄は死に、両親は共に老死。後、姉も居たが現在は行方不明だ。しかし、姉は昔から風のように現われ、風のように去ってゆく人だった。だから今でもどこかで生きて居るであろう。そう願っている。会えないのが残念だ。
 すると、沈黙を断ち切るようにガナーはため息をついた。そして、俺を受付まで誘導する。
「じゃあ、部屋を手配するわね。今回の部屋はどうする?」
「いつもの屋根裏部屋でいいよ」
「了解」
 俺がここで泊まるときは必ず屋根裏部屋を使わせてもらっている。もし、客用の部屋にしたら、部屋代は給料から引かれるのでこっちにしたほうが得だし、万一部屋が足りなくなったら追い出されないで済むからだ。ただ、客用の部屋と違ってかなりボロイし、天井にはぽっかりと大きな穴が開いている。けれど、その穴からはいつも新鮮な風が流れ込んでくるし、綺麗な星空も見られる。そう悪いものではない。
 まぁ、そう思っていられるのは現実を見ていないときだけであって、雨や雪のとき、風呂上りのときや風邪のときは、かなりの困り者で死ぬほど寒い。
 それらを承知の上で屋根裏部屋を頼む俺は、ただの馬鹿なのかもしれない。

「もしかして、そこに居るのは弟者モナ?」
 俺とガナーの視線は、声のした方に注がれる。
「て、店長!」
 俺たちの視線の先にいたのは、ガナーの兄でありこの宿の店長でもある人物。
 同時に俺がもっとも恐れている人物でもある。
「もしかしてまた水道管が凍結したモナか?」
「そうですよ、で?」
 モナーは見かけによらず、とても恐ろしい。不都合になると、すぐ人の弱みに付け込んでくる。が、なかなか憎めないものである。
 むろん、客に対しての接客は、こちらが見習わなければ、と思わせられるほどだ。
「荷物は屋根裏部屋に運んでおくから、さっそく仕事やってほしいモナ。」
 モナーは俺からリュックを奪い取る。そのあまりの重さに驚いたか、一瞬よろけた。
 なんだかんだでリュックを足元に置き、小さく息を漏らす。そんなモナーに俺は不満をぶつけた。
「またかよ」
「当たり前モナ。さもないと給料は無しにするモナ! さ、もう数人入ってるモナよ。いったいった!」
 モナーは俺に、大きなバスタオルを押し付け、荷物を担ぎ、ガナーと共に消えて行った。

 この人たち、悪魔だ。二人が見えなくなるまで思っていた。
 心を包む、敗北感。
 なぜか悔しかった。


 モナーの言ったとおり、風呂場にはすでに何人か居るようだった。まだ太陽が見えたばかりだというのに、早いものだ。
 俺に任された仕事は接客。風呂の中での接客だ。モナーが言うには『外見より中身が大事』とのこと。いったい、モナーは何を考えているのだろうか。それとも、わからないのは俺だけなのだろうか。
 風呂場の戸を開けた瞬間中に溜まっていた湯気が身体を包んだ。そのため、一瞬湯気で前が見えなくなった。
 室内の湿度は当然高かったが、それと対象に床はまだ冷たい。けれど、そんなには気にならなかった。
 入浴客の笑い声が聞こえる。
 俺も早くあの中に入ろう。そう思いながらシャワーの席を選び、震える手を押さえ蛇口をひねる。むろん、出てきたのは湯だった。流石は宿だけある。俺の家なら火にかけないと湯はでてこないのに。

 体を十分に洗い終え、蛇口を閉めようとしたときだった。無性に咳が出る。むせたというわけではないから、気温の変化に体がついていけなかったからだろう。それとも……。いや、余計な心配をしていてはきりがない。今は仕事に専念するのがいちばんだ。給料を下げられでもしたら今後の生活に響いてしまう。
 こんな考え事をしながらおけ等を片付けていると、客の一人が声をかけてきた。
「よう、久しぶりだな」
 常連客の一人だった。この人とはよく会う。
「あ。お久しぶりですね」
 この人と会うのはここでの楽しみでもあった。この人と話していると、とても楽しいし、何より大事なお客様だ。
「とりあえず兄ちゃんも風呂は入ろうぜ。体、もう洗ったろう」
 この水蒸気の中、見えているかどうか分からないが俺は笑みを返した。
 そろそろ入るとしますか。そう思ったからだ。
 運がいいことに咳はもう止まっていた。やっぱり、気温の差について行けなかったんだろうな。

 いろいろ考えながら、湯に足先を突っ込む。そして、一秒も漬からずすぐに足を引いた。
 熱い。熱すぎる。ぼんやりしていた思考がはっきりするほど熱かった。
「おいおい、そこから入るなんて無茶するなよ。そこからは湯が出ているんだから」
 先に入っていた一人の客に注意され、足元を見てみる。客の言うとおり、そこは湯の噴出口だった。熱々の湯が絶え間なく出ている。
「あ、俺としたことがついうっかり……」
 その客に聞こえるよう、わざと大きな声で言った。悔しかった。この客はまだ、三回しかこの風呂に入りに来ていない。入浴回数は俺のほうが多いのに。
 それは関係ないだろ、と自分で突っ込みを入れる。
 誰が何回ここに来たとか、自然に覚えてしまう自分が不思議だった。
 風呂に入る場所を変える。ここからは湯が出ていない。しかも、さっきのところよりは冷めていると思う。熱さに敏感な俺でもここからなら入れる。
「やっと、来たな」
 俺が入ると待っていたかのように、一人の客が近寄ってきた。さっき、俺に風呂に入れと勧めたあの客だった。
「やっと来ましたよ」
 そう言って、俺らは互いに苦笑した。
 俺は水しぶきが出ぬよう慎重に風呂に入る。
「どうだい、調子は。生活の方は未だに苦しいのかい」
「ええ。昨日また凍結しましたし」
 昨日は確か、兄者の夢を見た。それから俺は夜遅くに家を出た。客がまだ少ないのを狙ってだ。客が少なければ風呂の接客もやらなくて済む。そして今朝、ここに到着したのだ。しかし、予想は見事に外れた。客が一定の人数を超していたのだ。心の中でモナーに、客に、俺自身に、すべてに対して悪態をついていた。今でもそうだ。
「また凍結したのか! それじゃ、今年もここで年越しだな」
 客の声で自分が愚かだと気づいた。息をゆっくり吐き、不満を頭から振り払う。
「そのようですね。一回でいいから、この宿の風呂場以外のところで年越したいな……」
 客の笑い声が聞こえてきた。とても幸せそうな、笑い声。
 俺も釣られて笑ってしまった。この人は嘘をつかないと、信じたから。笑うときは心から笑い、話すときの眼は濁らない。それが、俺の目の前に居る客。だから、一緒にいて楽しい。
 ふと、遠くの壁に埋め込んである鏡が目に入った。そこには、自分が映っている。
 嘘っぽい笑みを浮かべた自分。俺はこの客のように笑えない。嘘の笑みしか浮かべられない。
「……!」
 いや、違う。あれは俺なんかじゃない。とても俺にそっくりな他人だ。
 なぜか、頭がそう認識した。眼だけを動かして辺りを確認する。俺と同じフーンはどこにも居なかった。それどころか、鏡は俺の居る位置からまっすぐ行ったところにあるのだ。鏡に映るのは俺自身しか居ない。
 再び鏡に視線を戻す。嘘っぽい笑みは、いつしか不気味な笑みにへと変わっていた。
「どうした? 遠くなんか見つめて?」
 何も答えない俺に、客は目の前で手を振る。どうした、おーい、とさっきから呼びかけている。その様子に周りの客たちも気づき始めたのか、周りに集まってきた。
「何かあったのか?」
「いや、特に何もないと思うんだけど。なんか遠く見てボーっとしてるから」
 すると、客の一人が俺の前に移動して来た。そしておけに溜めた大量の水を俺にぶっかけた!
「っつ!」
 少量の冷水が鼻から入り、気道を通って肺に流れ込む。その水を追い出そうと咳が絶え間なく出る。
 風呂場に暖かな空気が戻ってきた。
「寝不足の香具師には冷水をかけろ。これ基本な」
 客たちの笑い声の中、俺は未だに咳き込んでいた。水は肺から、とっくに抜けている。なのに咳が止まらない。口に手を当てる。
 止まれ。頼むから止まってくれ。
 自然と風呂場の端に寄った。これ以上風呂場を騒がせては、モナーから何を言われるか分からない。
 すると、願いが通じたのだろうか、咳が止まる。咳き込みすぎて頭がくらくらした。
「はぁ……」
 枯れた声で小さくため息をつく。
 仕方がない、一回上がろう。そう思ったから。

 楽しそうな空気を背に、湯から出ようとしたときだった。
 手を口に当てろ、と第六感が忠告したのだ。
 俺はその忠告に従い、湯から上がるのを止め、口に手を当てる。するとどうだろう。今までとは違った感じが胸の辺りから喉に戻ってくる。そしてそのまま咳として、吐き出した。
「……」
 手に生ぬるい感覚。ちらりと見えた赤いもの。
 視線を移すのが怖かった。

 俺はそのまま手を握り締め、風呂場を飛び出した。


 いつの間にか太陽は天の真上に昇っていた。周りにはやけに黒い雲が浮かんでいた。そのせいか、屋根裏部屋のいつもの薄暗さは、闇と化していた。
 中央のベッドから左の方にある小さな机には、一つのアイスが置いてあった。おそらくモナーか、ガナーからの差し入れだろう。
 いつもなら飛びついてしまう体も、今日は動かなかった。理由は簡単。吐血したから。恐怖で体が固まっているのだろう。単なる風邪では済まされないから。
「ふぅ……」
 脱力感のあまりベッドに倒れこむ。ふわふわした、ほんのりと温かい毛布が心地よかった。真上から背に射してくる日光には吐き気がした。
 まだ、死ぬと決まったわけじゃないのに。
 自分で自分に言い聞かせるが無意味だった。
 たまたま吐血しただけじゃないのか?
 どう思い込んでも、無駄。しまいにはなにも考えたくなくなった。
「あぁ……」
 もう、何もかもがどうでもよかった。
 だんだん時が経つにつれて、まぶたが重くなっていた。そしていつの間にか、闇に身を任せるようにそのまま眠りについていた。


 冷たい雨。
 そいつらは突然やってきた。半分投げやりの俺がそいつらに気がついたのは、降りだしてすぐのことだった。
「うわ、冷たっ!」
 自分でもわけのわからない奇声をあげながら、雨の当たらないところに避難する。雨はさっきよりも激しさを増していた。
「くそ、どうしてベッドの真上に穴があるんだよ。塞ぎに行かねえと……」
 とりあえず、隅にあったバケツを手に取り、ベッドの上に乗せる。そして、大きなビニールシートをリュックの中から探すが、あいにく、それは持っていないのを数分ほどしてから思い出した。宿にあると期待はできない。モナーは最小限必要なものしか買わないから。
「っち……。ま、いいか」
 いいわけあるかこのたわけ。俺は自分のつっこみすらも無視した。一回大きくため息をつき、穴から空を見た。どこまでも続いてそうな厚い雨雲が空を覆っていた。
 突然、腹がぐぅと鳴る。
「そういえば、まだ昼飯食ってねえや……」
 そう自覚してから襲いかかった空腹感。俺は昼食を済ませるために、食堂に向かった。


 食堂には今朝見た女子高生がまだ居座っていた。その他の客は誰一人としていない。どこからか、入るんじゃねえよオーラが漂っている。
 流石に、男がいないこの場所には入りにくいため、ロビーに向かう。空いているソファーを見つけると新しい新聞を引っ張り出しそこに座った。あらかじめ、家から持ってきていたおにぎりの入った袋を机の上に乗せる。そして中から適当に選び出し口に運んだ。その瞬間ありえないほどの塩辛さが口の中に広がった。
 ……やはり俺は料理に適していないようだ。まぁ、一人暮らしを始める前よりはマシになったが。
 無理やりおにぎりを口の中に押し込み、向かい側に座っていた客のニラ茶で胃に流し込んだ。
「ごちそうさま、ニラ茶美味しかったよ」
「勝手に飲んどいてなんだお前!」
「気にしないのがザ・ベスト」
「知るかゴルァ!」
 以上で今日の昼食は終わりだ。日頃からあまり食べていないせいか、おにぎり一個で腹は十分に満たされる。そのおかげで体力は兄者と並ぶほどにまでおちた。食べる量が少ないということは、それだけのエネルギーで十分、ということだから。
「弟者? ちょっと手伝って欲しいんだけど」
 反射的に声のしたほうに視線が向かう。眼に移ったのは受付に並ぶのは長蛇の列。今の時間帯、しかも正月前だと客が列を作る。ガナーが受付を担当しているが、こういう日は手が回らなくなるのでいつもは俺か、モナーのどちらかがガナーを手伝っている。
 ガナーは俺に手招きした。
「OK.OK. 今行きますよ」
 そう言って、俺はカウンターの中に入った。
 早速俺は列を二つに分け、ガナーと共に部屋の手配をする。部屋の手配の際には宿のパソコンを使う。しかし、このパソコンは三時間に一度は必ず『フリーズ』するという厄介な欠点を持っている。過去に俺は客に記入してもらえばいいとモナーに提案したが即却下された。

 しかし、この長蛇の列も数分もすればなくなっていた。
「あの……」
「うん? どうしたの」
 俺らが一息ついていたそのとき、少年はやってきた。少年は十歳前後で、今にも泣き出しそうな瞳をしていた。親とはぐれたのだろう、と俺は勝手に解釈しておいた。
 このまま話すのもアレなのでとりあえずカウンターからでた。そして、少年と眼の高さをあわせる。
「もしかして、お母さんとはぐれちゃったとかでしょ」
 少年は首を横に振った。それから一人の女性を指差す。どうやらあの人が母親らしい。
「じゃ、どうしたの?」
 懸命に語りかけるが、少年は話す様子をなかなか見せなかった。流石にイライラしてきた。仕方ない。小さい子の相手なら天下一品のガナーと交代するか。
「ちょっと待っていてね」
 俺は少年の頭を本当に軽く叩いた。するとあろうことか少年は泣き出してしまった。
「うわ、え、どうすれば……」
 とりあえず頭を撫でながら、泣き止め、泣き止めと念じてみる。むろん、泣き止むわけがなかった。
「遅れてごめんね。はい、ミルクだよ」
 隣にガナーの手が現われた。そのガナーの手には湯気を立てているマグカップがあった。
 少年は泣くのを止め、震える手でそのマグカップを受け取り、コクコクと音を立てながら飲み干した。
「お姉さん……ありがとう」
「ううん、いいのよ」
 いつの間にか二人は、俺そっちのけで話にのめりこんでいた。
「すみませーん、オムライスください」
 受付の方からそんな声がしたので、俺はしぶしぶカウンターの中に入った。そして宿内の地図を客に差し出す。
「すみませんが、当店では料理の注文は現在受け付けておりません。あと、ここは受付です。このおにぎり上げますから右の方にある隣の食堂で食べてください」
 客はうれしそうに、俺の差し出した袋を受けとる。中身のとんでもない味を知らずに。
 俺は心の中で笑っていた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
 あの少年の声だった。
「何? またミルクが欲しいんでちゅか?」
「違うよ。馬鹿にしないで。伝言もらったんだよ、お兄さんにそっくりな人からね」
 背に冷や汗が流れた。この少年がうかべているこの可愛らしい笑みがとても不気味に見えた。
「なんて、言われたんだ」
「『明日の朝までにこの宿を出ろ。死にたくなければな』ってね。それじゃ、しっかり伝えたからね」
 崖から突き飛ばされたような気分だった。詳しいことを聞き出そうと試みたが、少年はすでに母親のところに入っていた。
 俺の視線に気がつくと少年はにっこり笑って、小さく俺に手を振った。
 俺はただ見ているだけで、何もすることができなかった。


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