釈尊は五蘊以外のアートマンも認めない


 「これは私ではない、私のものではない、私の我(本質)ではない」という文は相応部の『無我相経』 に見られます。より状況の流れを記して『根本説一切有部毘奈耶破僧事』パーリ律『大品』にも出てきます。いわゆる初転法輪で五ビクに対して釈尊が四諦を説くところです。

 釈尊は苦楽中道、四諦三転十二行相を説きます。この教えを聞いて五ビクは次々に「何であれ生じたものは、全て消え去るものだ」と呟き、釈尊はそれを聞いて喜んで彼は分かったといいます。これは何が分かったかと言えば、通常、無常と言われます。ですが、それだけではなく縁起・無我が分かったから、釈尊は喜ぶわけです。

 どういうことかといえば、何かxとして認識したものはずっとxであるという実在論的立場、同一律から、何かxとして認識したものも直ぐにxではないのだという縁起論への転回なのです。これを裏付けるのが『スッタニパータ』762, 763(757, 758)で、こう述べています。

『スッタニパータ』
‘‘Yena yena hi maññanti, tato taṃ  hoti aññathā ; Tañhi tassa musā  hoti, mosa-dhammañ hi ittaraṃ .
‘‘Amosa-dhammaṃ  nibbā naṃ , tad ariyā  saccato vidū ; Te ve saccā bhisamayā , nicchā tā  parinibbutā ’’ti.
あらゆる条件(因縁)によって[x と]思う。それ(x)は[次の瞬間]それ(x)と異なるものになる。それ(x)はそれ(xと異なる)ゆえ虚妄です。
なぜなら[x と思う]虚妄な法はその場限りのものだから。不虚妄な法は涅槃です。それを聖者は真実と知る。彼らは真実を現観し無執着になり完全に涅槃する、と。

『スッタニパータ・ブッダゴーサ註』
Yena yena hī ti yena yena rū pe vā  vedanā ya vā  ‘‘mama rū paṃ , mama vedanā ’’tiā dinā  nayena maññanti. Tato
ta nti tato maññitā kā rā  taṃ  nā marū paṃ hoti aññathā . Kiṃ  kā raṇ aṃ ? Tañhi tassa musā hoti , yasmā  taṃ
yathā maññitā kā rā  musā  hoti, tasmā  aññathā  hotī ti attho. Kasmā  pana musā  hotī ti? Mosa-dhammañ hi ittaraṃ ,
yasmā  yaṃ  ittaraṃ  paritta-paccupaṭṭ hā naṃ , taṃ  mosa-dhammaṃ  nassana-dhammaṃ  hoti, tathā rū pañ ca nā marū panti.
「あらゆる条件によって」とはあらゆる色や感受によって「私の色、私の感受」などと考えて「[xと]思う。それ(x)はそれ(x)と」思った姿が、その名色と「異なるものになる」。
 理由は何か? 「それ(x)はそれ(xと異なる)ゆえ虚妄です」[つまり]それは思った通りの[認識した]姿が虚妄だから、異なるものになっているという意味です。
しかし、なぜ虚妄なのかというなら、「なぜなら[x と思う]虚妄な法はその場限りのものだから」何かその場限りのものとは短い今ここの有様で、それは虚妄な法、消滅する法です。そしてそのようなものが名色です、と。

 この前提を確認したので、再び『破僧事』『大品』に戻ります。釈尊は五ビクが実在論から縁起論に転回したので、続けて五蘊が我ではないことを説き、説法の終わりに問題の以下の文を述べます。

根本説一切有部毘奈耶破僧事

T1450_.24.0128c01: 告曰。是
T1450_.24.0128c02: 故當知。諸所有色。若過去若未來若現在。若
T1450_.24.0128c03: 内若外若麁若細若勝若劣若近若遠。如是
T1450_.24.0128c04: 諸色非我。非我所有。非屬於我。我不在色。由
T1450_.24.0128c05: 如實遍知。應如是見。乃至受想行識亦如是
T1450_.24.0128c06: 見。汝等聲聞弟子。具足多聞觀五取蘊。離我
T1450_.24.0128c07: 我所。如是觀已。知諸世間實無可取。無可
T1450_.24.0128c08: 取故不生怖畏。無怖畏故内證圓寂。

 SBV I 138, A 392b:  tasmāt tarhi bhikṣavo yat kiñcid rūpam atītānāgata-pratyutpannam adhyātmaṃ vā bāhyaṃ vā audārikaṃ vā sūkṣmaṃ vā hīnaṃ vā 
praṇītaṃ vā yad vā dūre yad vā antike tat sarvaṃ naitan mama, naiṣo 'ham asmi, naiṣa me ātmeti; evam etat yathābhūtaṃ samyakprajñayā 
draṣṭavyam;  yataś ca bhikṣavaḥ śrutavān āryaśrāvaka imāṃ pañca upādānaskandhān naivātmato nātmīyataḥ samanupaśyati; sa evaṃ 
samanupaśyan na kiñcil loka upādatte; anupādadāno na paritasyati aparitasya ātmaiva parinirvāti; 


D45b:	དགེ་སློང་དག་དེ་ལྟ་བས་ན་ཚོར་བ་དང་། འདུ་ཤེས་དང་། འདུ་བྱེད་དང་། རྣམ་པར་ཤེས་པ་ཇི་སྙེད་པ་གང་ཅི་ཡང་རུང་འདས་པའམ། མ་འོངས་པའམ། ད་ལྟར་བྱུང་བའམ། ནང་གིའམ། ཕྱིའི་འམ། རགས་པའམ། ཕྲ་བའམ། ངན་པའམ། 
གྱ་ནོམ་པའམ། གང་དག་ཐག་རིང་བའམ། གང་དག་ཐག་ཉེ་བ་དེ་དག་ཐམས་ཅད་ནི་བདག་མ་ཡིན། བདག་ནི་དེ་མ་ཡིན། དེ་ནི་བདག་གི་བདག་མ་ཡིན་ནོ་ཞེས་ཇི་ལྟ་བ་དེ་བཞིན་དུ་ཡང་དག་པའི་ཤེས་རབ་ཀྱིས་བལྟ་བར་བྱའོ། །
དགེ་སློང་དག་འདི་ལྟར་འཕགས་པའི་ཉན་ཐོས་ཐོས་པ་དང་ལྡན་པ་ནི་ཉེ་བར་ལེན་པའི་ཕུང་པོ་ལྔ་པོ་འདི་བདག་མ་ཡིན། བདག་གི་མ་ཡིན་པར་ལྟ་བ་སྟེ། དེ་དེ་ལྟར་བལྟ་བ་ན། འཇིག་རྟེན་ཅི་ཡང་ལེན་པ་མེད་དོ། །ལེན་པ་མེད་ན་ཡོངས་སུ་གདུང་བ་མེད་དོ། །
ཡོངས་སུ་གདུང་བ་མེད་ན་བདག་ཉིད་ཡོངས་སུ་མྱ་ངན་ལས་འདས་ཏེ་


それゆえビクらよ! 過去・未来・現在のいずれであれ、内であれ外であれ、粗であれ細であれ、劣であれ優であれ、遠くであれ近くであれ、
色一切は「それは私のものではない」「それは私ではない」「それは私の本質ではない」と、このようにあるがままに正しい般若で見るべきです。
ビクらよ! このように教えを聞いた聖なる声聞は、この五取蘊は私ではない、私のものではないと見ます。そして彼はそのように見たから、
世間の何にも取ることがありません。取ることがないから、煩らい悩みません。煩らい悩まないから、全く精神が鎮まり(涅槃し)ます。

mahāvagga 22: ‘‘Tasmā tiha , bhikkhave, yaṃ kiñci rūpaṃ atītānāgata-paccuppannaṃ ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ vā 
hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ dūre [yaṃ dūre vā (syā.)] santike vā, sabbaṃ rūpaṃ – netaṃ mama, nesoham asmi, na meso attāti – 
evam etaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ. 
それゆえビクらよ! 過去・未来・現在のいずれであれ、内であれ外であれ、粗であれ細であれ、劣であれ優であれ、遠くであれ近くであれ、
色一切は「それは私のものではない」「それは私ではない」「それは私の本質ではない」と、このようにあるがままに正しい般若で見るべきです。

 つまり、五蘊は習わしによって仮設(ラベリング)される「私のもの」でも「私」でもなく、仮設の「私」の本質や実体でもないという意味です。つまり、釈尊はいわゆるアドヴァイタ仏教や野狐禅が説明するような可能性を全て遮断しているわけです。そのために三項に分けて説くのです。同様な方法は二十有身見があり、『中論』22-1や『入中論』6-144でもそれを受けてます。『中論』22-1は五蘊以外の五項を加えて二十五種になってますが。
 上の解釈を根拠付けるのが無着菩薩の『大乗アビダルマ集論』の以下です。

大乘阿毘達磨集論
T1605_.31.0675b02: 何等無我相。謂如我論者所立我相蘊界處
T1605_.31.0675b03: 非此相。由蘊界處我相無故。名無我相。故薄
T1605_.31.0675b04: 伽梵密意説言。一切法皆無我。如世尊説。此
T1605_.31.0675b05: 一切非我所。此非我處此非我我。於如是義
T1605_.31.0675b06: 應以正慧如實觀察。此言何義。謂於外事密
T1605_.31.0675b07: 意説此一切非我所。於内事密意説此非我
T1605_.31.0675b08: 處此非我我。所以者何。以於外事唯計我所
T1605_.31.0675b09: 相。是故但遣我所。於内事1通計我我所相。
T1605_.31.0675b10: 是故雙遣我我所

anātma-lakṣaṇaṃ katamat / yathātmavāde sthitasya ātma-lakṣaṇasya skandha-dhātv-āyataneṣu (Abhidh-s 41) tal-lakṣaṇasyābhāvaḥ / 
skandha-dhātv-āyataneṣu ātma-lakṣaṇābhāvatām upādāya / idam ucyate anātma-lakṣaṇam // etad abhisaṃghāyoktaṃ bhagavatā sarve dharmā 
anātmāna iti // api coktaṃ bhagavatā naitat sarvaṃ mama naiṣo 'hamasmi na me sa ātmā iti / evametaṃ yathābhūtaṃ saṃprajñāya draṣṭhavyam iti 
tasya ko 'rtha uktaḥ / bahirdhāvastabhisaṃdhāyoktaṃ naitat sarvaṃ mameti / kuta etat / bahirdhā-vastuni kalpitātmīya-lakṣaṇam / ataḥ ātmīya-
niṣkarṣaṇam / adhyātma-vastuni parikalpitātmātmīya-lakṣaṇam / ata ātmātmīyobhaya-niṣkarṣaṇam /

D77a:	བདག་མེད་པའི་མཚན་ཉིད་གང་ཞེ་ན། ཇི་ལྟར་བདག་ཏུ་སྨྲ་བ་རྣམས་ཀྱིས་བདག་ཏུ་བཏགས་པའི་མཚན་ཉིད་དེས། ཕུང་པོ་དང་ཁམས་དང་སྐྱེ་མཆེད་རྣམས་མཚན་ཉིད་དང་བྲལ་བའོ། །
ཕུང་པོ་དང་ཁམས་དང་སྐྱེ་མཆེད་རྣམས་ནི་བདག་གི་མཚན་ཉིད་ཀྱིས་བདག་མེད་པའོ། །འདི་ལ་དགོངས་ནས་བཅོམ་ལྡན་འདས་ཀྱིས་ཆོས་ཐམས་ཅད་བདག་མེད་པའོ་ཞེས་གསུངས་སོ། །བཅོམ་ལྡན་འདས་ཀྱིས་འདི་དག་ཐམས་ཅད་ནི་ངའི་བ་མེད་དོ། །
འདི་ནི་ང་མ་ཡིན་པའོ། །འདི་ནི་ངའི་བདག་མ་ཡིན་པ་སྟེ། དེ་ནི་འདི་བཞིན་ནོ་ཞེས་ཡང་དག་པའི་ཤེས་རབ་ཀྱིས་ཡང་དག་པ་ཇི་ལྟ་བ་བཞིན་དུ་བལྟ་བར་བྱའོ། །ཞེས་གསུངས་པ་འདིའི་དོན་ཅི་ཞེ་ན། ཕྱིའི་དངོས་པོ་འདི་ནི་བདག་གི་མ་ཡིན་ནོ། །
ནང་གི་དངོས་པོ་འདི་ནི་ང་མ་ཡིན་ནོ། །འདི་ནི་ངའི་བདག་མ་ཡིན་པའོ་ཞེས་བྱ་བར་དགོངས་ནས་གསུངས་པ་སྟེ། འདི་ལྟར་ཕྱིའི་དངོས་པོ་ལ་ནི་བདག་གི་རྣམ་པར་དང་། ནང་ལ་ནི་བདག་དང་བདག་གི་རྣམ་པར་བཀག་གོ  ། །
無我の姿は何かというなら、あたかも我論者たちが我(実在・本質)と設定した姿(相・特性)。その姿は諸蘊界処にない。
諸蘊界処に我の姿がないことを捉えて、これを無我の姿と言いいます。これをお考えになって世尊は「一切諸法は無我」と、
また世尊は「〈一切は私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない〉と、それはこのように正しい般若によって正しくあるがままに見るべきです」説かれました。
この意味は何かというなら、「外的物事、これは私のものではない。内的物事、これは私ではない。これは私の我ではない」とお考えになって説かれたのです。

 また『清浄道論』はより具体的にアドヴァイタ仏教や野狐禅がどのように五蘊をアートマンと捉えるか、観・ヴィパサナの過程で現れる十の迷い道をを以下のように詳細に述べています。

visuddhimagga 735. Ettha ca obhāsādayo upakkilesa-vatthutāya upakkilesāti vuttā, na akusalattā. 
Nikanti pana upakkileso ceva upakkilesa-vatthu ca. Vatthu-vaseneva cete dasa. Gāha-vasena pana samatiṃsa honti. Kathaṃ? 
‘‘Mama obhāso uppanno’’ti gaṇhato hi diṭṭhi-gāho hoti, ‘‘manāpo vata obhāso uppanno’’ti gaṇhato māna-gāho, obhāsaṃ assādayato taṇhāgāho, 
iti obhāse diṭṭhi-māna-taṇhā-vasena tayo gāhā. Tathā sesesupīti evaṃ gāha-vasena samatiṃsa upakkilesā honti. 
Tesaṃ vasena akusalo abyatto yogāvacaro obhāsādīsu kampati vikkhipati. Obhāsādīsu ekekaṃ ‘‘etaṃ mama, esoham asmi, eso me attā’’ti (ma. ni. 1.241) samanupassati. Tenāhu porāṇā –

‘‘Obhāse ceva ñāṇe ca, pītiyā ca vikampati; Passaddhiyā sukhe ceva, yehi cittaṃ pavedhati.
‘‘Adhimokkhe ca paggāhe, upaṭṭhāne ca kampati; Upekkhāvajjanāyañca, upekkhāya nikantiyā’’ti. (paṭi. ma. 2.7);

736. Kusalo pana paṇḍito byatto buddhi-sampanno yogāvacaro obhāsādīsu uppannesu ‘‘ayaṃ kho me obhāso uppanno, 
so kho panāyaṃ anicco saṅkhato paṭiccasamuppanno khayadhammo vayadhammo virāgadhammo nirodhadhammo’’ti iti vā 
taṃ paññāya paricchindati upaparikkhati. Atha vā panassa evaṃ hoti, ‘‘sace obhāso attā bhaveyya, ‘attā’ti gahetuṃ vaṭṭeyya. 
Anattā ca panāyaṃ ‘attā’ti gahito. Tasmā so avasa-vattanaṭṭhena anattā, hutvā abhāvaṭṭhena anicco, uppāda-vaya-paṭipīḷanaṭṭhena dukkho’’ti 
sabbaṃ arūpa-sattake vuttanayena vitthāretabbaṃ. Yathā ca obhāse, evaṃ sesesupi. So evaṃ upaparikkhitvā obhāsaṃ 
‘‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’’ti (ma. ni. 1.241) samanupassati. Ñāṇaṃ…pe… nikantiṃ ‘‘netaṃ mama, nesohamasmi, 
na meso attā’’ti (ma. ni. 1.241) samanupassati. Evaṃ samanupassanto obhāsādīsu na kampati na vedhati. 
そしてそこ[観の汚れ]で光明などは汚れの基から汚れと言われ、不善だから汚れと言われるのではありません。
しかも欲求は正に汚れで且つ汚れの基です。基としてこれらは十です。さらに執着としてこれらは三十です。どうしてか? 
「私の光明が生じた」と執着した者は見執があり、「ああ、心地よい光明が生じた」と執着した者は慢執があり、光明を味わう者は愛執がある。
以上、光明に見・慢・愛による三執がある。[光明の]他[の九つ]も同じだから、執着として三十の汚れがあります。
それらに精通せず知らない行者は、光明などに心揺れ乱され、光明など[の体験]一つ一つを「それは私のものだ」「それは私だ」「それは私の本質だ」と見る。古人曰く、

 光明、智慧、歓喜に心揺れ、軽安、楽に心震える。勝解、把握(策励)現成、捨、転向捨、欲求に心揺れる。

しかし、精通し賢く智慧ある行者は、光明などが生じた時、「これは正しく私に光明が生じた。
さらに正に彼は〈これは無常で作られ縁起した壊れるもの、消え去るもの、離欲のもの、滅するもの〉」と、それを般若によって分析し考察します。
あるいは彼はこう分析し考察します、「もし光明が我であるなら、〈我〉と捉えるのもいい。しかし無我なこれを〈我〉と捉えること。
だからそれは不自由という意味で無我、有って無くなる意味で無常、生滅に逼迫される意味で苦」と。全てを七非色観法で詳しく理解すべきです。
そして光明についてと同様に他も理解すべきです。彼はこのように考察して光明を「それは私のものではない」「それは私ではない」「それは私の本質ではない」と見ます。
[同じく他の]智慧から欲求までを「それは私のものではない」「それは私ではない」「それは私の本質ではない」と見ます。このように見た者は光明などに心揺れず心震えない。

 つまり、止・サマタが完成し観を、縁起・無我で正しく行じないものは光明などの禅定・三昧体験をアートマンと勘違いしてしまうが、縁起・無我で正しく行じるものは光明などの体験を無我と捉えることができるということです。つまり、我と捉える観は正しい観ではないのです。これは『梵網経』でいう聖者、つまり禅定・三昧体験をアートマンと勘違いしてしまう境地を指していると考えます。
 さらに相応部では、次のように説かれます。

『倶舎自註』対5-7, P467 所引: ye kecid bhikṣavaḥ śramaṇā vā brāhmaṇā vā ātmeti samanupaśyantaḥ samanupaśyanti sarve ta imāneva pañcopādāna-skandhāni
SN 22.47, PTS III, p.46 : ye hi keci bhikkhave, samaṇā vā brahmaṇā vā anekavihitaṃ attānaṃ samanupassamānā samanupassanti, sabbe te pañcupādānakkhandhe samanupassanti,
『雑阿含経』:若諸沙門婆羅門。見有我者。一切皆於此五受陰見我。
ビクらよ! シャモンでもバラモンでも[何かを]「我」と思って見る人々は、誰であれ他ならぬこの五取蘊を[我と]見る


 つまり、なんども述べてきた『梵網経』に説かれるように、なんらかの三昧・禅定体験の感受を、我・アートマン・実在・本質と捉えるのは、五取蘊のどれかを捉えているに他ならないと釈尊は説かれる。その点で諸テキストは一致しています。

 だから、現象・縁起・五蘊/実在・我・アートマンという解釈は、仏教ではありえません。これはもちろん『中論』『入中論』など中観でも同じことです。
最終更新:2012年06月23日 17:00
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