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梵本断片
- A.F.R. Hoernle, The Sutta Nipāta in a Sanskrit Version from Eastern Turkestan, JRAS [1916] 709-732.(未見)
漢訳
『スッタニパータ』837は次のような状況で説かれます。
マーガンディヤというバラモンが娘を飾り立て、釈尊に捧げると。かつて菩提樹の下で悟りを開く前、悟らせまいと見目麗しい三人の女神が神技を尽くして誘惑した。それを見ても全く欲望が起きなかったのにこんな糞尿の袋を見て触りたいと思うだろうか、と釈尊に言われ。マーガンディヤはこんな美女に全く魅せられないというアナタの見解、修行は何で、輪廻をどう捉えているのかと問われて、釈尊は以下のように答えます。
世尊(釈尊)曰く:
「マーガンディヤ! 諸法と捉えて決定し〈これと言い切る〉ことはその人にはない。
そう見て諸見解と捉えず、分析し内なる静寂(析滅)を観た」と。843.[PTS 837]
マーガンディヤ曰く:
「仙人さま、決定し分析分別した何か、
それらを全く捉えず、内なる静寂ということを説かれますが、
そのことをどのように賢者たちは述べるのですか?」844.[PTS 838]
世尊曰く:
「マーガンディヤ! 見てでなく、聞いてでなく、知ってでなく、
戒律や物忌によっても清浄になると言わない。見ないでなく、聞かないででなく、知らずにでなく、
戒律や物忌なしにも清浄になると言わない。そして、それらを捨て捉えず、
寂静は有に依らず有を望まない」845.[PTS 839]
マーガンディヤ曰く:
「もし〈見てでなく、聞いてでなく、知ってでなく、
戒律や物忌によっても清浄になる〉とも言わず〈見ないでなく、聞かないででなく、知らずにでなく、
戒律や物忌なしにも清浄になる〉とも言わないなら、私は全く愚かな法だと思う。
見解によってある人は清浄になると見なします」846.[PTS 840]
世尊曰く:
「マーガンディヤ! 見解に基いて訊ね、捉えた事々の中で[アナタは]迷っています。
そしてそれにより概念をちっとも理解しなかった。
それゆえアナタは愚かしいと見るのでしょう」847.[PTS 841]
言説はxであると割り切れなければならないというような立場から見解、修行を問うマーガンディヤ。そのような論理形式で言い切ることを排した深淵な道を釈尊が示します。しかし、彼は割り切って見解で捉えようとするので、論理形式を離れた道が全く理解できません。これは現代で論理形式を離れた道を説く
『中論』が、同一性に基づく論理を自明とする人たちから非論理・詭弁なとど捉えられるのと全く同じように思われます。それが簡潔に表されています。
このことを確認するために先ずパーリ・ニカーヤに編纂されている『スッタニパータ』アッタカ・ヴァッカに対する古い註
『マハーニッデーサ』を見ましょう。次のように注釈しています。
「〈これと言い切る〉ことはその人にはない」のうち「これと言い切る」とは、これと言い切る、
それと言い切る、それだけと言い切る、その範囲と言い切る、この見方であると言い切る。
[つまり]「世界は恒常である」から「如来は死後有るのでも有るのでないのでもない」[という決定]
「諸法と捉えて決定し」のうち「諸法と」とは、六十二見とです。「決定し」とは、
決定、判断、分析、吟味、比較、測定し、判明にし、明らかにして範囲を捉え、部分を捉え、長所を捉え、
中身を捉え、積んだものを捉え、集まったものを捉えて、「これは真実、そのもの、真如、実在、あるがまま、
倒錯していない」と捉えられ、重視され、思い込まれ、執著され、信仰される。
[それら諸法・見解は]存在しない。現存しない。見られない。知覚されない。
遮断され、断絶され、鎮まり、止まり、生じられず、智慧の火で焼かれた。というのが「諸法と捉えて決定し」
「そう見て諸見解と捉えず」とは〈諸見解を災いと見ている者は見解によって捉えない。重視しない。
思い込まない。執著しない。あるいは捉えるべきない。重視すべきない。思い込むべきない。執著すべきない〉
ということです。このように「そう見て諸見解と捉えず」
以上から「これと言い切る」とは決定、あるいは見解であり、見解とは六十二見と解釈されていることがわかります。六十二見は世界や我について「xである。xでない。xでありxでない。xであるのでもなくxでないのでもない」という四句分別による判断形式を列挙したものです。四の倍数にならないのは可能性のない論理項を省略したりしているからです。つまり、「これと言い切る」とは四句分別という論理形式によって世界や我を捉えることを示しています。
そして悟った方であるブッダ「その人」には、そのような論理形式で見解を捉えないことが示されています。
『マハーニッデーサ』は続けて、次のように注釈しています。
「分析し内なる静寂[析滅]を観た」とは〈内なる静寂とは、内なる貪欲の静寂、瞋恚の静寂、暗愚の寂静、
忿怒の...中略...一切の不善諸行の静寂、鎮まり、止息、寂滅、止まり。
「分析し」とは分析しながら、判断しながら、吟味しながら、比較しながら、測定しながら、判明しながら、
明らかにしながら「一切諸行は苦だ」と「一切諸法は無我」と「何か生じたもの、その一切は滅するものだ」と
分析しながら、判断しながら、吟味しながら、比較しながら、測定しながら、判明しながら、明らかにしながら。
以上から「分析し内なる静寂を観た」とは分析修習、観、ヴィパシャナによる滅、戯論寂滅、アビダルマ的に言えば析滅を指していることが分かります。その分析の内容が「一切諸行は苦だ」や「一切諸法は無我」や「何か生じたもの、その一切は滅するものだ」です。つまり、三法印や四法印、縁起法頌や諸行無常偈(雪山偈) ですが、その意味は知覚対象が実在する、実体を持つという素朴実在論的見方から、生じたものは滅する、実体はないという縁起論への転換です。そしてこれによって悟ることが初転法輪のカウンディニャの言葉から釈尊の涅槃まで一貫して示されています。
次に『スッタニパータ』838相当詩句を引用する
『大智度論』を参考までに:
これ[自法に愛着し他法を誹るのは持戒者でも地獄から逃れられないという詩句]はブッダの法で一切の愛着、
見解、私[が有る]という[エゴイステックな]慢心[有身見]を捨て去り、完全に断じ執著しないということです。
『筏喩経』[春秋社中部経典1,332]が「この[寂滅の境地にいる]時、善法さえも捨てるべきですから、
不善法は言うまでもありません」と説くようにです。
[常に寂滅の境地にいる]ブッダご自身は般若ハラミツを念ぜず依らず、
まして他の法に依って執著することなど言うまでもありません。
こういうわけで仏法の始めに「このように」と言うのです。ブッダの御心は次「私の弟子は法に愛着しない、
法に汚染されない、仲間なく、ただ苦から離れ開放され妄想のない諸法相を求め
[〈このように〉執著なく諸法を聞いたのであ]る」のようなものです。
あたかも『八義経』[アルタカヴァルギーヤ・スートラ Sn 838以下相当]でこう説かれるように。マーカンディカが、
諸々の決定された法[ドグマ・宗義]で様々な想念が生み出された内外の諸説を
全て捨て、それ無くしてどのように道を得るというのですか?
ブッダが答えて、
見て聞いて知るのではありません。また、戒律を保って得るのでもありません。
また、見ず聞きかず、戒律を保たず得るのでもありません。
このような論理を全て捨て、私と私のもの[という意識]を捨て、
諸法相を取らない。このように道を得るべきです。
マーカンディカが、
もし見ず聞きかず、戒律を保たず得るのでもない。
見ず聞きかないのでもなく、戒律を保たないで得るのでもないなら、
自分の心を観察して沈黙の法を保って道を得るのですか?
ブッダが答えて、
アナタは邪見に依っています。私はアナタが道に迷っていることが分かります。
アナタが妄想を見ない時、正に自ずと沈黙するでしょう。
また更に「私の法は真実で他の法は妄想。私の法は勝義で他の法は不実」[Sn 843]というこれは諍いの元。
今問題としている「このように」という言葉の意味は、人に諍いのない法を示しています。
[つまり〈このように〉]他人が説くのを聞いても他人が誤ってるとしないと説く。
以上ゆえ、諸仏経の始めに「このように」と言うのです。「このように」という意味を略説し終えました。
『アルタカヴァルギーヤ・スートラ』は『アッタカ・ヴァッカ』の平行梵本で『八義経』
『義足経』はその漢訳と考えられます。マーカンディカはマーガンディヤの梵音で、誤記ではありません。
今度は「私」について説きましょう。問う「もし仏法で一切法空、一切私や我は有ることないというなら、
どうして仏経の始めに〈このように私は聞いた〉と言うのですか?」
答える「仏弟子などは我がないと分かっているけど、世間的言い習わしに従って私と言うが、
実在の私ではない。譬えば金貨で銅貨を買っても人は笑わない。
なぜなら、売買の習わしでそうなっているからです。私と言うのもこのようなものです。
無我の法の中で我を説くのは世俗に従うからで非難すべきではありません。
『天問経』[中村元『神々との対話』40頁以下相当]の詩句に
アルハットの比丘が諸煩悩が尽た最後の身体で私と言うことができるのですか?
ブッダが答えられて、
アルハットの比丘が諸煩悩が尽た最後の身体で私が有ると言えます。
世間的言い習わしで私と言うのは勝義で[私が有ると言うので]はありません。
これゆえ、諸法空で無我でも、私と言うことは誤りではありません。
また更に世間の言葉には三つの本質あります。第一は[諸現象が実在するという]倒錯。
第二は[自分が有るというエゴイステックな]慢心。第三に[仮設された]記号。
このうち二つは不浄で一つは清静です。全ての凡人は倒錯・慢心・記号の三つを持つ。
見道のものは慢心・記号の二つを持つ。煩悩の尽きた諸聖者は記号だけを持つ。
内心本質的な[空]法に背かないが、世間の人に従って[仮設された]この言葉で伝達[コミュニケート]します。
世間の邪見を除くために世俗に順じ[て言葉を使い、その意味・用法について]争いません。
[高麗本: +これゆえ二種の不浄な言語の本質を除いて、世間に従うから一種の言葉を用います。
仏弟子は世俗に従うから私ということは誤りではありません]
また更にもし人が無我相に執著して「これ[無我・空性という見解・体験こそ]が真実で他は妄語だ」
と言うなら、この人を非難すべきです。アナタは一切法の実相は無我だというが、
どうして〈このように私は聞いた〉と[経典は]言うのか? 今、諸仏弟子は一切法が空で無所有です。
ここで心は執著せず、諸法の実相にも執著しない。ましてや無我という法に心が執著することなどない。
以上のように、どうして〈私は〉と言うのか?」と非難するのです。
『中論』の詩句に
もし、空でない所が有れば、必ず空である所が有る。
空でないものも得られないのに空など、どうして得られるだろう。[13-8]
人は空でないものを見れば空も見る。
[そうではなく]見るも見ないも見ない。これが正に涅槃という。
不二の安楽門は諸邪見を遮断する。
諸仏の対象領域であるこれが無我法という。
[『般若灯論』大正30, 109a蔵訳欠: 置涅槃岸如上偈説。不二安隱門。能破諸邪見。諸佛所行處。是名無我法]
と説かれるように。「私」という意味を略説し終えた。
今度は「聞いた」について説こう。問う「〈聞いた〉とは何を言うのか?
聞くとは耳の感覚器官を用いて聞くのか? 耳識をを用いて聞くのか? 意識を用いて聞くのか?
もし耳の感覚器官が聞くなら、耳の感覚器官は知覚がないから聞こえないだろう。
もし耳識が聞くなら、耳識は一念だから分別できない。だから、聞こえないだろう。
もし意識が聞くなら、意識も聞けない。なぜなら、先の五識は五対象を認識する。その後で意識が認識する。
意識は現在の五対象を認識しない。ただ過去と未来の五対象を認識する。
もし意識が現在の五対象を認識するなら、盲聾も音声や景色を認識すべきだ。
なぜなら、意識に障害がないのだから」
答える「耳の感覚器官が聞くのではない。また耳識や意識が聞くのでもない。
音声を聞くことは多くの因縁が和合することから音声を聞けるのです。
一つの現象要素が音声を聞くと言うことはできない。
なぜなら、耳の感覚器官は知覚がないから聞こえないでしょう。
識は景色がなく抵抗対象がないから、音声を聞こえないでしょう。
音声は知覚なく感覚器官もないから音声を知覚しない。
耳の感覚器官に障害なく、音声が聞こえる場所に来た時、意識が聞こうと思い、
対象・意識が和合するから耳識が生じる。耳識に従って意識が生じる。
種々の因縁を分別して音声を聞くことができるのです。
以上によってこの[音は何が聞くのかというパラドキシカルな]非難をすべきではない。
音声を聞くといっても、仏法では一つの現象要素が作り見、知覚することはありえない。
詩句に
業が有り果が有る。業と果を作る者は無い。
この勝義は甚深でこの法はブッダが説かれた。[『勝義空性経』]
空でも断絶せず、相続しても恒常でない。
[業の]罪福も失われない。このようにブッダが説かれる[『中論』17-20]
と説かれるように。「聞いた」という意味を略説し終えた。