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劉備 - (2007/05/09 (水) 00:16:44) のソース

*劉備

:姓|劉
:名|備
:字|玄徳
:誕生年|161年
:死亡年|223年4月24日(63歳)
:出身地|幽州[シ豕]郡[シ豕]県

**年表
|年|所在|立場・事跡|出典|備考|
|175|幽州[シ豕]郡[シ豕]県|[[公孫(王賛)]]と共に[[盧植]]に師事。|蜀書・先主伝||
|184||[[鄒靖]]に従って黄巾討伐に従軍。|蜀書・先主伝||
|?|冀州中山国安熹県|黄巾討伐の功績で安熹県令となるも、督郵を杖で打ち据えて逃亡。|蜀書・先主伝||
|?|徐州下邳郡|[[何進]]の命を受けた[[毋丘毅]]に従い丹陽で募兵に向かう途中、下邳で賊退治。|蜀書・先主伝||
|?|青州北海国下密県|上記功績で下密の丞となるが棄官。|蜀書・先主伝||
|?|青州平原国高唐県|高唐の尉に就任。|蜀書・先主伝||
|?|青州平原国高唐県|高唐の県令に昇進。|蜀書・先主伝||
|?|幽州右北平郡|賊に敗れて公孫(王賛)を頼る。|蜀書・先主伝||
|?|青州平原国平原県|[[田楷]]と共に[[袁紹]]と戦い、平原の国相となる。|蜀書・先主伝||
|193|徐州|[[曹操]]に攻められた[[陶謙]]を助けに徐州に赴く。|蜀書・先主伝||
|193|予州沛国沛県|陶謙の上表で予州刺史となり、小沛に駐屯。|蜀書・先主伝||
|194|徐州下邳郡下邳県|陶謙の死後、徐州牧の地位を譲られる。|蜀書・先主伝||
|196|徐州広陵郡淮陰県|淮陰に侵入した[[袁術]]を撃退。|蜀書・先主伝||
|196|徐州広陵郡淮陰県|曹操の上表で鎮東将軍・宜城亭侯となる。|蜀書・先主伝||
|196|徐州広陵郡海西県|呂布に下邳を奪われて海西に移動。|蜀書・先主伝||
||徐州?|楊奉、韓暹を撃破。|蜀書・先主伝||
||予州沛国沛県|呂布に降伏して小沛に駐屯。|蜀書・先主伝||
||予州潁川郡許県|呂布に攻撃されて曹操を頼る。予州牧となる。|蜀書・先主伝||
|198?|予州沛国沛県|夏侯惇と共に高順と戦うが敗北。|蜀書・先主伝||
|198|徐州下邳郡下邳県|12月、曹操と共に下邳を包囲、呂布を斬る。|蜀書・先主伝||
||予州潁川郡許県|左将軍となる。|蜀書・先主伝||
||徐州|徐州を通過して青州に向かう袁術を撃つために出撃、しかし袁術は病死。|蜀書・先主伝||
||徐州下邳郡下邳県|徐州刺史の[[車胄]]を殺害して曹操に叛旗。下邳に[[関羽]]を置いて小沛に駐屯。|蜀書・先主伝||
||予州沛国沛県|曹操が派遣した[[劉岱]]・[[王忠]]を撃退。[[孫乾]]を派遣して袁紹と組む。|蜀書・先主伝||
|200|予州沛国沛県|1月、曹操が討伐に来たので青州に逃亡、袁紹を頼る。|蜀書・先主伝||
|200|エン州東郡延津県|4月、文醜と共に出撃するが、曹操に敗北。|魏書・袁紹伝||
|200|予州汝南郡|劉辟と組んで汝南で曹操に反抗するが、曹仁に敗北し[業β]に戻る。|魏書・袁紹伝||
|200|予州汝南郡|[[劉表]]と出陣を促す名目で[[(龍共)都]]と組んで汝南を荒らす。[[蔡陽]]を撃破。|魏書・袁紹伝||
|201|荊州南陽郡新野県|曹操の攻撃を受けて劉表を頼る。新野の守りにつく。|魏書・袁紹伝||
|203|荊州南陽郡博望県|8月、博望で[[夏侯惇]]・[[李典]]を破る。|蜀書・先主伝|魏書・李典伝によれば黎陽で[[袁尚]]と戦った(203年3月)後で李典は夏侯惇と共に劉備と戦い不利だったとあり、その後[業β]を包囲(204年2月)している。従って203年8月に[[曹操]]が劉表と戦った武帝紀の記述がこの戦いだと思われる。|
|207|荊州南郡襄陽県?|烏丸討伐中の曹操の隙を突いて許を攻めよと劉表に進言するも容れられず。|蜀書・先主伝||
|208|荊州南郡襄陽県樊城|8月、劉表が死に、[[劉琮]]が跡を継ぐ。劉備は樊城に駐屯。曹操が宛に到着と聞いて撤退。襄陽で劉琮に会えず。|蜀書・先主伝|年月は武帝記による|
|208|荊州南郡襄陽県樊城|9月、曹操が宛に到着と聞いて撤退。襄陽で劉琮に会えず。|蜀書・先主伝|年月は武帝記による|
|208|荊州南郡当陽県|当陽に着いた頃には劉備一行は十余万の人々が従っていたという。|蜀書・先主伝||
|208|荊州南郡当陽県長坂|長坂で曹操軍に追いつかれ、妻子を棄てて逃亡。|蜀書・先主伝||
|208|荊州江夏郡夏口|逃げ回り漢津で関羽と合流。夏口で劉琦と合流。[[孫権]]に[[諸葛亮]]を送って同盟を組む。|蜀書・先主伝||
|208|荊州江夏郡赤壁|12月、孫権軍と共同で赤壁で曹操軍を破る。南郡まで進撃する。|蜀書・先主伝|年月は武帝記による|
||荊州南郡公安|劉琦を荊州刺史に上表。|蜀書・先主伝||
||荊州|武陵太守の[[金旋]]、長沙太守の[[韓玄]]、桂陽太守の[[趙範]]、零陵太守の[[劉度]]を降す。廬江の賊の[[雷緒]]が帰順する。|蜀書・先主伝||
|209|荊州南郡公安|劉琦が死ぬと部下に推されて荊州牧に。公安を州都とする。|蜀書・先主伝|年月は孫権伝による|
||揚州呉郡呉県?|孫権の妹をを夫人として同盟し、孫権と京城で面会。|蜀書・先主伝|京城とは孫権の本拠地のことだろうか?211年にバツ陵に移転し翌年建業と改名した、それ以前は孫権は呉(蘇州)にいたと孫権伝にはある。|
|211|益州広漢郡葭萌県|[[劉璋]]は[[張松]]の進言に従って[[法正]]を劉備の元に送り、漢中の[[張魯]]討伐を依頼。フ県で劉璋と面会し、劉璋に行大司馬・司隷校尉に推挙される。葭萌に駐屯して人心を収攬。|蜀書・先主伝||
|212|益州広漢郡葭萌県|曹操に攻撃された孫権の要請に応じて劉璋に増援を要求。劉璋は要求の半分の兵しか送らない。|蜀書・先主伝|武帝記には10月に孫権討伐とある。|
||益州広漢郡白水県|内応が発覚して張松が処刑される。劉備は[[楊懐]]・[[高沛]]を斬って劉璋に叛旗を翻す。|蜀書・先主伝||
||益州広漢郡フ県|[[劉(王貴)]]、[[冷苞]]、[[張任]]、[[鄧賢]]をフ県で破る。|蜀書・先主伝||
||益州広漢郡緜竹県|[[李厳]]を綿竹で降伏させる。|蜀書・先主伝||
||益州|諸葛亮、[[張飛]]、[[趙雲]]を荊州から呼び寄せ、白帝、江州、江陽を平定する。|蜀書・先主伝||
|213|益州広漢郡雒県|[[劉循]]が篭城する雒を包囲する。|蜀書・先主伝||
|214|益州広漢郡雒県|雒を落とす。|蜀書・先主伝||
|214|益州蜀郡成都県|成都を数十日の包囲し劉璋を降伏させる。|蜀書・先主伝||
|214|益州蜀郡成都県|益州刺史を兼任する。|蜀書・先主伝||
|215|荊州南郡公安|[[呂蒙]]が長沙、零陵、桂陽の三郡を奪うと五万の軍を率いて公安に駐屯。|蜀書・先主伝||
|215|荊州南郡公安|曹操が漢中を攻めると孫権と盟約を結んで荊州を分割。|蜀書・先主伝||
|215|益州巴郡江州県|[[黄権]]を派遣して張魯を迎えようとするが、張魯は先に曹操に帰順した。|蜀書・先主伝|武帝記によれば、張魯は215年11月に降伏したとある。|
|215|益州巴郡江州県|11月、張飛を宕渠県に派遣して[[張(合β)]]を破る。成都に帰還する。|蜀書・先主伝|武帝記に張(合β)が巴に攻め込んだのが11月とある。|
|218|益州漢中郡|軍を率いて漢中に侵攻。陽平関に駐屯。|蜀書・先主伝||
|218|益州武都郡|[[呉蘭]]、[[雷銅]]を武都に侵入させるが、曹操軍に敗れて全滅する。|蜀書・先主伝||
|219|益州漢中郡ベン陽県定軍山|春、定軍山で[[夏侯淵]]を討ち取る。|蜀書・先主伝||
|219|益州漢中郡ベン陽県|曹操の攻撃を受けて立て篭もる。|蜀書・先主伝||
|219|益州漢中郡ベン陽県|夏、曹操は撤退し、漢中を手に入れる。|蜀書・先主伝||
|219|益州漢中郡上傭県|[[劉封]]、[[孟達]]、[[李厳]]を派遣して上傭の申耽を攻撃する。|蜀書・先主伝||
|219|益州漢中郡ベン陽県|秋、群臣に漢中王に推挙され、漢帝に上奏。|蜀書・先主伝||
|219|益州蜀郡成都県|魏延を漢中の守りに残して成都に帰還。|蜀書・先主伝||
|220|益州蜀郡成都県|魏が漢から禅譲を受けた際に献帝が殺害されたという誤報を受けて喪に服す。|蜀書・先主伝||
|221|益州蜀郡成都県武担山|4月、漢(蜀漢)の皇帝に即位。大赦を行い、年号を黄龍と改める。|蜀書・先主伝||
|221|益州蜀郡成都県|5月、[[呉夫人]]を皇后に、[[劉禅]]を皇太子に任命。|蜀書・先主伝||
|221|益州蜀郡成都県|6月、[[劉永]]を魯王、[[劉理]]を梁王に任命。|蜀書・先主伝||
|221|荊州南郡秭帰県|7月、呉の討伐に出陣。秭帰に駐屯。[[呉班]]・[[馮習]]が[[李異]]を破る。|蜀書・先主伝||
|222|荊州南郡夷道県|2月、夷道に進軍。[[馬良]]を派遣して武陵郡の蛮族を慰撫。[[黄権]]を夷陵に派遣して呉軍に対峙させる。|蜀書・先主伝||
|222|益州巴郡永安県|6月、陸遜に破られて魚腹に退却。魚腹を永安と改名する。|蜀書・先主伝||
|222|荊州南郡巫県|8月、巫県に移動。|蜀書・先主伝||
|222|荊州南郡巫県|10月、[[孫権]]と和睦。|蜀書・先主伝||
|223|益州巴郡永安県|3月、[[諸葛亮]]に後事を託す。|蜀書・先主伝||
|223|益州巴郡永安県|4月、永安で死去。諡号は昭烈皇帝。|蜀書・先主伝||

**備考
-先主伝の注に[[張純]]討伐に従軍し、後に軍功で安熹県の尉になったとあるが、張純の反乱は187-188のことで黄巾の乱のかなり後である。
-同じく注に曹操と共に洛陽を脱出し沛で反[[董卓]]の挙兵をしたとある。



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