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孫権 - (2007/12/24 (月) 00:10:42) のソース

*孫権

:姓|孫
:名|権
:字|仲謀
:誕生年|182年
:死亡年|252年(71歳)
:出身地|呉郡富春県

**年表
|年|所在|立場・事跡|出典|備考|
|196|陽羨県|陽羨県の県長に任じられる|呉書・呉主伝|このとき孫権は十五歳とある|
|196||郡太守から孝廉の資格を認定され、刺史からは茂才に推挙されて、奉義校尉を代行する|呉書・呉主伝||
|199|廬江|兄[[孫策]]に従い廬江太守の[[劉勲]]を撃破する|呉書・呉主伝||
|199|江夏郡沙羨県|[[黄祖]]を撃破する|呉書・呉主伝||
|200||建安五年、兄孫策の後を継ぐ|呉書・呉主伝||
|?||曹操の上奏により討虜将軍に任じられ、会稽太守に封じられる|呉書・呉主伝||
|?|呉郡呉県|呉県に本拠を置く|呉書・呉主伝||
|202|呉郡呉県|建安七年、母の呉氏が亡くなる|呉書・呉主伝||
|208|江夏郡|建安十三年春、黄祖を攻めて撃破し、馮則が黄祖を討ちとる|呉書・呉主伝||
|208||[[劉備]]が[[諸葛亮]]を使者に立ててくる。孫権は[[周瑜]]・[[程普]]を劉備のもとに送った|呉書・呉主伝||
|208||周瑜・程普を左右両軍の司令官に任じ、それぞれ兵一万を授けて劉備とともに赤壁に軍を進めて曹操と激突させ、曹操を大敗に追いやる|呉書・呉主伝||
|208|九江郡合肥県|自ら軍を率いて合肥を包囲し、[[張昭]]に九江郡当塗県を攻めさせるが一月経っても合肥は陥落せず、[[張喜]]が合肥救援に向かったため到着前に引きあげる|呉書・呉主伝||
|209||劉備の上表により車騎将軍の代行となり、徐州牧に封じられる|呉書・呉主伝||
|210||予章郡を分けて鄱陽郡を設け、長沙郡を分けて漢昌郡を設ける|呉書・呉主伝||
|211|丹陽郡秣陵県|秣陵に本拠を移す|呉書・呉主伝||
|212|丹陽郡建業|石頭城を築き、秣陵を建業と改称する|呉書・呉主伝||
|212||曹操が攻めてくるとの情報を聞き濡須塢を築く|呉書・呉主伝||
|213|揚州廬江郡|一月、濡須で曹操と戦う|呉書・呉主伝|この戦闘は一ヶ月近く続いた|
|213|揚州廬江郡|夜陰に乗じて長江の中洲に渡った部隊を包囲して三千余りを捕え、水に溺れた者も数千に達した|呉歴||
|213|揚州廬江郡|大船に乗って敵情視察に向かうと、弓と弩を大量に浴びせられたため、刺さった矢の重みで船が傾いて転覆しそうになる。孫権は船をめぐらせて反対側にも矢を受けさせ、船を安定させてから引きあげた|魏略||
|213|揚州廬江郡|曹操に「春の出水が間近です。お早く去られるように」と手紙を送り、曹操は「わしに嘘をつく男ではない」と軍を引きあげた。また別の手紙では「あなたが生きてるかぎり、私は安心できませぬ」と伝えている|呉歴||
|214|廬江郡皖城|五月、皖城に遠征する|呉書・呉主伝||
|214|廬江郡皖城|閏月、皖城を攻め落とす。廬江太守の朱光と参軍の董和および男女数万人を捕虜とした|呉書・呉主伝||
|214||蜀を平定した劉備に荊州の返還を求めて[[諸葛瑾]]を使者に立てるが拒否される|呉書・呉主伝||
|?||南方三郡(長沙・零陵・桂陽)に官吏を送り込むが[[関羽]]に追い返される|呉書・呉主伝||
|215|荊州陸口|[[呂蒙]]を総司令官として鮮于丹・徐忠・孫規などの率いる二万の兵で長沙・零陵・桂陽を攻撃させ、[[魯粛]]に一万の兵を授けると巴丘に駐屯させて関羽を防がせる。孫権自身は陸口にとどまり、軍糧の調達と各攻略軍の指揮にあたった|呉書・呉主伝|年は蜀書・先主伝による|
|215|荊州陸口|劉備が公安に軍を進め、関羽が三万の兵で益陽へと進出したため呂蒙らを呼び戻して魯粛の救援に向かわせる|呉書・呉主伝||
|215|荊州陸口|曹操が漢中に侵攻したため、劉備が和議を申し入れてくる。諸葛瑾を使者に立てて荊州・長沙・江夏・桂陽以東を返還させ、同盟を結びなおす|呉書・呉主伝||
|215|揚州九江郡合肥県|陸口から帰還すると合肥に遠征したが、攻め落とせず引きあげる。この際に[[甘寧]]・[[凌統]]らと逍遙津に残っていたところ、魏将・[[張遼]]に急襲される。凌統らの奮戦により孫権は橋を渡って逃れることができた|呉書・呉主伝||
|216|揚州廬江郡|建安二十一年冬、曹操が居巣に本営を置いて濡須を攻める|呉書・呉主伝||
|217|揚州廬江郡|春、都尉の徐詳を派遣して帰順を申し入れる|呉書・呉主伝||
|219|荊州|建安二十四年、閏十月。孫権は関羽の背後を呂蒙に襲わせる|呉書・呉主伝||
|219|荊州|関羽に降伏するよう勧める使者を送るが、関羽は降伏するとみせかけて逃走する。しかし、孫権はあらかじめ朱然と潘璋に命じて退路を断たせておいた|呉書・呉主伝||
|219|荊州|十二月。[[潘璋]]の司馬である[[馬忠]]が章郷で関羽とその子[[関平]]、都督の[[趙累]]らを捕えた。こうして荊州は平定された|呉書・呉主伝||
|?||曹操の上表により驃騎将軍に任じられ、節を与えられて荊州牧、南昌侯に封じられた|呉書・呉主伝||
|?||校尉の梁寓を使者として漢の朝廷に貢ぎ物を献上させ、王惇に馬を購入させた。さらに魏の朱光らを帰国させた|呉書・呉主伝||
|221||十一月、魏の朝廷より孫権に賞を加える親書が下される|呉書・呉主伝||
|221||劉備が荊州へと侵攻してくる。孫権は[[陸遜]]を督に任じ、[[朱然]]・潘璋を率いさせて防がせた|呉書・呉主伝||
|?||魏帝が孫権の子の孫登を侯に封じると伝えたが、まだ幼いことを理由に辞退する親書を送る。さらに西曹掾の沈珩を謝礼の使者として、呉の特産品を献上した|呉書・呉主伝||
|?||孫登を太子に立てる|呉書・呉主伝||
|222||陸遜が劉備を撃破する|呉書・呉主伝||
|222||秋九月、魏が洞口・濡須・南郡に侵攻してくると[[呂範]]に五軍を指揮させて洞口の魏軍に当たらせ、濡須には諸葛瑾ら、南郡には[[朱桓]]を督として送り込んだ|呉書・呉主伝||
|222||揚州と越の不服従民族の対処に終われた孫権は曹丕に講和を申し出るが、孫登を差し出すよう迫られる|呉書・呉主伝||
|222||冬十一月、大風により呂範の軍に被害が出たため、江南へと退いた。曹仁が臧覇に命じて徐陵を襲わせて攻城車を焼き払い、数千人を殺傷して引きあげると、[[全琮]]と[[徐盛]]はこれを追撃して魏将の尹盧を斬り、数百人を殺傷した|呉書・呉主伝||
|222||十二月、太中大夫の鄭泉に白帝城の劉備を訪ねさせ、友好関係を修復した|呉書・呉主伝||
|222||夷陵を西陵と改名した|呉書・呉主伝||
|223||正月、夏口の江夏山に城壁を築く|呉書・呉主伝||
|223||四月、群臣が帝位につくよう勧めたが、承知しなかった|呉書・呉主伝||
|224||魏の文帝との関係が断絶する|呉書・呉主伝||

**備考

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