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袁紹」(2007/11/20 (火) 14:34:44) の最新版変更点

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*袁紹 :姓|袁 :名|紹 :字|本初 :誕生年|? :死亡年|202年 :出身地|予州汝南郡汝陽県 **年表 |年|所在|立場・事跡|出典|備考| |?|洛陽|郎となる|魏書・袁紹伝|魏書・袁紹伝の[[沮授]]の進言によればこのとき20歳か?| |?|エン州東郡濮陽県|濮陽県長となる|魏書・袁紹伝|| |?||母の喪に6年間服す。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|招聘に応ぜず、[[張邈]]、[[許攸]]、[[何(禺頁)]]、[[曹操]]ら少数の友人のみと交友を結ぶ。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|何進の掾となる。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|侍御史となる。|魏書・袁紹伝|| |188|洛陽|中軍校尉となる。|魏書・袁紹伝|いわゆる西園八校尉。後漢書には188年のこととある。| |189|洛陽|仮節・司隷校尉となり宦官討伐を行う。が、何進は殺される。|魏書・袁紹伝|後漢書には司隷校尉就任は189年のこととある。| |189|冀州勃海郡|[[董卓]]を避けて冀州に逃亡する。勃海太守・[亢β]郷侯となる|魏書・袁紹伝|| |190|冀州勃海郡|1月、挙兵。諸侯との連合が成立し、車騎将軍となる。親族が董卓に皆殺しにされる。|魏書・武帝紀|| |190|司隷河内郡孟津県|[[王匡]]、曹操らと河内に駐屯。|魏書・武帝紀|| |?||[[韓馥]]と共に[[劉虞]]に使者を送り皇帝即位を求めるが断られる。|魏書・袁紹伝|このあたり時期の前後関係が不明確| |?|エン州陳留郡延津県|延津に駐屯。|魏書・袁紹伝|| |?|司隷河南尹梁県陽城|予州刺史に任命した[[周昂]]に[[袁術]]、[[孫堅]]の陣を攻撃させ、公孫越を戦死させる。|魏書・公孫(王賛)伝|袁術寄りの記述と袁紹寄りの記述が散在していてわかりにくい、、| |?|冀州|安平を[[公孫(王賛)]]に追われた韓馥から冀州牧の地位を得る。|魏書・袁紹伝|| |?|冀州清河郡広川県|界橋で公孫(王賛)を撃破。|魏書・袁紹伝|魏書・公孫(王賛)によれば袁紹軍は広川に陣を敷いた。| |?|冀州|龍湊で公孫(王賛)を再び撃破。|後漢書・袁紹伝|| |193|冀州|皇帝([[劉協]])の使者[[趙岐]]に従って公孫(王賛)と和睦。|魏書・袁紹伝|この事跡、三国志では黒山討伐の後の記述だが、後漢書では前の記述となっている。| |193|冀州魏郡[業β]県|3月、魏郡が黒山の[[于毒]]と結んで反乱、太守の[[栗成]]が死亡。斥丘を守る。|魏書・袁紹伝|後漢書には193年3月とある。| |193|司隷河内郡朝歌県鹿場山蒼厳谷|6月、于毒、冀州牧の[[壺寿]]を斬る。|魏書・袁紹伝|同じく年月は後漢書から。| ||冀州常山国|黒山の[[張燕]]を呂布と共に破る。|魏書・袁紹伝、呂布伝|| |195|冀州魏郡[業β]県|右将軍となる。|後漢書・袁紹伝|| |195?|冀州魏郡[業β]県|袁譚を青州刺史、袁煕を幽州刺史、高幹を并州刺史に任命。|後漢書・袁紹伝|魏書・袁紹伝では易京を落した後に息子達を外に出したように書かれているが実際は袁譚はもっと早くに曹操から青州刺史に任命されている。後漢書・袁紹伝では195年の記述である。| |195|幽州漁陽郡[シ路]県|[[麹義]]、[[劉和]]、[[鮮于輔]]らに公孫[王賛]の漁陽太守[[鄒丹]]を討たせ、公孫[王賛]を易京に追い詰める。|魏書・公孫(王賛)伝|後漢書・公孫[王賛]伝によれば烏丸の峭王([[蘇僕延]])と共に195年公孫[王賛]を破ったとある。| |196|冀州魏郡[業β]県|9月、太尉・[業β]侯となるが太尉は辞退。|魏書・袁紹伝|曹操の下となることを恥じたためと武帝紀にある。| |196|冀州魏郡[業β]県|10月、大将軍となる。|魏書・袁紹伝|後漢書には197年にやっと任命を受け入れたとある。| |196|冀州河間国易県|麹義軍は兵糧が尽きて撤退。|後漢書・公孫[王賛]伝|麹義が袁紹に殺されたのがいつかは不明。後漢書・袁紹伝では194年の記述だが、公孫[王賛]伝では195年に漁陽を攻撃したとある。| |199|冀州河間国易県|張燕の援軍を撃退し、易京を落して河北を平定。|後漢書・袁紹伝|| |200|冀州魏郡[業β]県|監軍の[[沮授]]の権限を[[郭図]]、[[淳于瓊]]に三分割。|魏書・袁紹伝|| |200|エン州東郡白馬県|2月、曹操討伐に出陣。東郡太守[[劉延]]の篭る白馬を攻撃。|魏書・武帝紀|| |200|エン州東郡白馬県|4月、[[顔良]]、[[文醜]]が曹操軍に討ち取られる。|魏書・武帝紀|| |200|エン州東郡延津県|延津に進軍。|魏書・武帝紀|| |200|司隷河南尹官渡|8月、官渡に撤退した曹操と交戦。|魏書・武帝紀|| |200|司隷河南尹官渡|10月、烏巣の兵糧が焼かれ総崩れとなり退却。|魏書・武帝紀|| |201|冀州|冀州各地の反乱を平定。|魏書・袁紹伝|| |202|冀州魏郡[業β]県|夏、病死。|魏書・袁紹伝|| **備考 ---- #comment(vsize=2,nsize=20,size=40) ----
*袁紹 :姓|袁 :名|紹 :字|本初 :誕生年|? :死亡年|202年 :出身地|予州汝南郡汝陽県 **年表 |年|所在|立場・事跡|出典|備考| |?|洛陽|郎となる|魏書・袁紹伝|魏書・袁紹伝の[[沮授]]の進言によればこのとき20歳か?| |?|エン州東郡濮陽県|濮陽県長となる|魏書・袁紹伝|| |?||母の喪に6年間服す。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|招聘に応ぜず、[[張邈]]、[[許攸]]、[[何(禺頁)]]、[[曹操]]ら少数の友人のみと交友を結ぶ。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|何進の掾となる。|魏書・袁紹伝|| |?|洛陽|侍御史となる。|魏書・袁紹伝|| |188|洛陽|中軍校尉となる。|魏書・袁紹伝|いわゆる西園八校尉。後漢書には188年のこととある。| |189|洛陽|仮節・司隷校尉となり宦官討伐を行う。が、何進は殺される。|魏書・袁紹伝|後漢書には司隷校尉就任は189年のこととある。| |189|冀州勃海郡|[[董卓]]を避けて冀州に逃亡する。勃海太守・[亢β]郷侯となる|魏書・袁紹伝|| |190|冀州勃海郡|1月、挙兵。諸侯との連合が成立し、車騎将軍となる。親族が董卓に皆殺しにされる。|魏書・武帝紀|| |190|司隷河内郡孟津県|[[王匡]]、曹操らと河内に駐屯。|魏書・武帝紀|| |?||[[韓馥]]と共に[[劉虞]]に使者を送り皇帝即位を求めるが断られる。|魏書・袁紹伝|このあたり時期の前後関係が不明確| |?|エン州陳留郡延津県|延津に駐屯。|魏書・袁紹伝|| |?|司隷河南尹梁県陽城|予州刺史に任命した[[周昂]]に[[袁術]]、[[孫堅]]の陣を攻撃させ、公孫越を戦死させる。|魏書・公孫(王賛)伝|袁術寄りの記述と袁紹寄りの記述が散在していてわかりにくい、、| |?|冀州|安平を[[公孫(王賛)]]に追われた韓馥から冀州牧の地位を得る。|魏書・袁紹伝|| |?|冀州清河郡広川県|界橋で公孫(王賛)を撃破。|魏書・袁紹伝|魏書・公孫(王賛)によれば袁紹軍は広川に陣を敷いた。| |?|冀州|龍湊で公孫(王賛)を再び撃破。|後漢書・袁紹伝|| |193|冀州|皇帝([[劉協]])の使者[[趙岐]]に従って公孫(王賛)と和睦。|魏書・袁紹伝|この事跡、三国志では黒山討伐の後の記述だが、後漢書では前の記述となっている。| |193|冀州魏郡[業β]県|3月、魏郡が黒山の[[于毒]]と結んで反乱、太守の[[栗成]]が死亡。斥丘を守る。|魏書・袁紹伝|後漢書には193年3月とある。| |193|司隷河内郡朝歌県鹿場山蒼厳谷|6月、于毒、冀州牧の[[壺寿]]を斬る。|魏書・袁紹伝|同じく年月は後漢書から。| ||冀州常山国|黒山の[[張燕]]を呂布と共に破る。|魏書・袁紹伝、呂布伝|| |195|冀州魏郡[業β]県|右将軍となる。|後漢書・袁紹伝|| |195?|冀州魏郡[業β]県|袁譚を青州刺史、袁煕を幽州刺史、高幹を并州刺史に任命。|後漢書・袁紹伝|魏書・袁紹伝では易京を落した後に息子達を外に出したように書かれているが実際は袁譚はもっと早くに曹操から青州刺史に任命されている。後漢書・袁紹伝では195年の記述である。| |195|幽州漁陽郡[シ路]県|[[麹義]]、[[劉和]]、[[鮮于輔]]らに公孫[王賛]の漁陽太守[[鄒丹]]を討たせ、公孫[王賛]を易京に追い詰める。|魏書・公孫(王賛)伝|後漢書・公孫[王賛]伝によれば烏丸の峭王([[蘇僕延]])と共に195年公孫[王賛]を破ったとある。| |196|冀州魏郡[業β]県|9月、太尉・[業β]侯となるが太尉は辞退。|魏書・袁紹伝|曹操の下となることを恥じたためと武帝紀にある。| |196|冀州魏郡[業β]県|10月、大将軍となる。|魏書・袁紹伝|後漢書には197年にやっと任命を受け入れたとある。| |196|冀州河間国易県|麹義軍は兵糧が尽きて撤退。|後漢書・公孫[王賛]伝|麹義が袁紹に殺されたのがいつかは不明。後漢書・袁紹伝では194年の記述だが、公孫[王賛]伝では195年に漁陽を攻撃したとある。| |199|冀州河間国易県|張燕の援軍を撃退し、易京を落して河北を平定。|後漢書・袁紹伝|| |200|冀州魏郡[業β]県|監軍の[[沮授]]の権限を[[郭図]]、[[淳于瓊]]に三分割。|魏書・袁紹伝|| |200|エン州東郡白馬県|2月、曹操討伐に出陣。東郡太守[[劉延]]の篭る白馬を攻撃。|魏書・武帝紀|| |200|エン州東郡白馬県|4月、[[顔良]]、[[文醜]]が曹操軍に討ち取られる。|魏書・武帝紀|| |200|エン州東郡延津県|延津に進軍。|魏書・武帝紀|| |200|司隷河南尹官渡|8月、官渡に撤退した曹操と交戦。|魏書・武帝紀|| |200|司隷河南尹官渡|10月、烏巣の兵糧が焼かれ総崩れとなり退却。|魏書・武帝紀|| |201|冀州|冀州各地の反乱を平定。|魏書・袁紹伝|| |202|冀州魏郡[業β]県|夏、病死。|魏書・袁紹伝|| **備考 ---- - 三国志さいこうじゃぁぁぁぁぁ!!! -- 諸葛孔明 (2007-11-20 14:34:44) #comment(vsize=2,nsize=20,size=40) ----

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