総司令 第弐拾九話

「野菜炒め?」
僕は台所で料理するレイに、そっと声をかけた。
お昼ご飯を作っているところだ。

「うん。ごめんなさい、昨日と同じ物だけど」
「いや、いいよ――ああ、そうだね。中華そばがあるから、焼きそばにしちゃおう」
「焼きそば……」

冷蔵庫からそばの袋を取り出して、レイから料理途中のフライパンを取り上げた。
「うん、後はそばと一緒に炒めるだけ。ああ、豚肉抜きになっちゃうな」
「……ごめんなさい」
「いいんだよ、レイ。もうお肉を食べるのは止めよう」
「どうして?」

まじまじと聞き返すレイ。
いや、レイの好みに合わせたいだけなんだけど、それを言うと気を遣わせちゃうな。

「いや、なんとなくね。そうだ、晩ご飯は天ぷらに挑戦しよう」
「天ぷら?」
「うん。野菜を美味しく食べられるからね」
「……」
「レイはいいよ。僕が作る。僕も初挑戦だし、たくさん油を使うから危ないんだ」
「どうして?」

え?

「いや、どうしてって、油をたくさん……」
「どうして、泣いているの?」

……。

「いや、油が跳ねて目に入っちゃったんだ。大丈夫だよ、レイ」
「……」

レイはうなずいたりせず、マジマジと僕の顔を見る。
多分、嘘だとばれてるな。

「レイ。ほら、料理中だと危ないから」
「うん……」

でも、あえてレイは嘘をついた理由を聞いたりしない。
こういう時は、聞いてはいけないと判っているから。

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少し時間を遡るけど、その日の朝のこと。

ミサトさんは僕の所にやってきた。
もうすぐやってくる参号機について。

「リツコはね。シンジ君に参号機のパイロットを決めさせなさいと言うの」
「どうして僕が?」
「候補がいずれもシンジ君に関わりがあるから、ですって」

そういって、資料を僕に見せる。
「鈴原トウジ君。知ってるんでしょ?」
「何故、彼を?」
「適正がもっとも高いらしいの」

適正――ミサトさんは知らないのだろうか。
適正というものは後から作られるものだ、ということを。

「彼を選ぶか、そうでなければ」
「そうでなければ?」

ミサトさんは少し口にすることをためらった。
しかし、言わないわけにもいかないらしい。

「リツコは、レイを二人にすると言っているわ」
「そ、そんな! 大騒ぎになりますよ!」
「リツコはレイの秘密を本部内に広めてしまう覚悟のようよ」
「そうまでして……」

僕は思わずうなだれる。
そんな、どちらも選べるわけが無いじゃないか。

「シンジ君」
「え」

ミサトは僕の両肩に手を置いて、僕の目を覗き込んだ。
「逃げなさい、シンジ君」
「ええ?」
「レイを連れて逃げるの。私も手伝う」
「……」
「あなた、これ以上こんなことに付き合わされていたら壊れてしまうわ。そういう私もそうよ。
 一刻も早く、こんなところからおさらばしたい。一緒に逃げましょう。レイを連れて、いけるところまで」

そんな、出来るわけが無いじゃないか。

「使徒が来ます。使徒を倒さなければ人類は」
「アスカが居るわ。そして、参号機のパイロットを決めさえすれば」
「でも、レイは……レイの体は」
「そうね」

レイの体はNERVに縛られている。
そうだ、あの注射が必要なんだ。
もし、あれがNERV以外で手に入らなければ、レイは外では生きていけない。

そして僕もまた、もはやレイ抜きで生きていくのは嫌だ。
見つかるというのだろうか。レイ以外の生きる希望なんてものが。

ミサトさんは鼻息荒く、吐き捨てた。
「今に見てなさい。リツコ」

そして、ミサトさんは待ち合わせの手筈を決めて去っていった。
そうだ。あの注射のことをリツコさんに聞かなくちゃ――。

「シンジ」

背後から、アスカの声。

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その後。

アスカとのやり取りを終えたその後、レイとお昼ご飯を作って食べて、ミサトさんからの連絡を待つ。
とりあえず、どんな子なのかを見てみよう、とのこと。
エヴァのパイロットにするかどうかは、それからの話。

「レイ、着替えておいで。うーんと……」
僕も外出の用意しなきゃ。
といっても、ジーンズとシャツに着替えるだけなんだけど。

「レイ、まだ?」
「……」

どうしたんだろう。
寝室の奥に入ったまま出てこない。
僕は思わず開けようとして、ためらった。

レイの成長は著しい。
もしかしたら、着替えを見られたくないという羞恥心も芽生えたのかも知れない。
そういえば、アダムとイヴが最初に芽生えた知性は羞恥心だった……。

「待たせてごめんなさい」
「あ……!」

レイが来ている服。それは僕達が以前にブティックで買ったスーツだった。
そうか。レイはこれを着るのに手間取ってたのか。
もうお蔵入りにするしかないと思ってたのに。

店員さんが選んでくれた、レイの髪の色に合わせた青と紺の清楚なスーツ。
どんな場面でも着ていける落ち着いたもので、ついでに小さなバッグのおまけ付き。

店で着たときとはまるで雲泥の差。
あの時の無気力なレイではまるで台無しだったのに。

「どう?」

以前着たときと違うのは、そのレイの目だ。
レイが僕の評価を気にするその恥じらうような目付き。
それだけでレイの全身全てを生まれ変わらせてしまった。

成長した。本当にレイは成長したんだ。

「……ああ、いや。ごめんね、レイ」
「あ、あの」

レイは戸惑う。そりゃそうだろう。
僕がまた、泣き出しちゃったから。

「レイ、ごめんね。嬉しいときも人は泣くんだ」

これも嘘だった。
いや、嬉しいんだ。レイの予想だにしなかった成長ぶりが嬉しくない訳がないじゃないか。
嬉しいからこそ、辛いんだ。

なぜレイが?
なんで、レイがそうなんだろう。
なぜ、他の誰でもなくレイだったんだろう。

「レイ、ちょっと待っててね。僕もとっておきのジャケットを着ていくから」

嬉しさ、喜び、それらが全て悲しみへと転嫁される。
レイが、そうであるために。

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駐車場でようやく僕達のもとにやってきたミサトさんは、レイの姿を見て驚喜した。
「ちょ、ちょっと、どうしちゃったのよ! レイ、いったい何があったの?」
「いや、スーツを着ただけですってば」
「レイがこんなに良い素材だとは思っても見なかったわ。そうだ! シンちゃん、ちょっと待ってね。んーと、メイクメイク!」
「え?」

そんなミサトさんの大騒ぎにもレイは無反応。
いや……?

ピクリと、レイがミサトさんの方を見た。

「シンちゃん、ちょっと待ってね。この格好で化粧無しじゃもったいない! ほらほら、私がもっともっと綺麗にしてあげる!」
「あ、あの、ミサトさん」
「えーと、ファンデーションと、それから……レイ、これ、高いのよ?
 それから口紅はどうしようかな。よーし、思い切って水色! レイにはこれっきゃない!」
「あの、ちょっと、ミサトさん」
「こんな色、絶対に塗ることないと思ってたけど――私ってば偉い! よくぞ持ってた! 」

レイが、ミサトさんの指示通りに動いてる。
そのことを言おうとしたけど、ミサトさんは夢中で声もかけられない。
初めてだ。こんなことは初めてのことだ。
いったい、レイはどうしたというのだろう。

「レイ? 唇を、んーってやって、口紅をなじませるの。はい、んー、ばっ」
「……」
「そうそう、それでいいのよ。しっかし、それに引き替えシンちゃんの方は冴えないわねぇ」
「……大きなお世話ですよ」

ミサトさんは夢中で気付いていないのだろうか。
僕としか馴染めなかったレイが、自分の呼びかけに応えていることを。

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「それじゃ、シンジ君。いってらっしゃい」
「はい」
「終わったら連絡をちょうだい。すぐ向かえに来るから」

ミサトさんはトウジが居るという病院まで送り届けてくれた。
自分も同行しようかと思ってたけど、まずは僕自身で判断しろ、と言う。
余計なことを僕に考えさせないために。

「いえ、レイと食事をしてから帰りたいので」
「ウフフ、せっかくですものね。たっぷりデートを楽しんでらっしゃい。でも」
「え?」
「仕事で来ているのだと言うことを忘れないで」

少し、ミサトさんは顔を引き締める。
そうだ。僕は重大なことを決めなくちゃならない。

参号機のパイロットを誰にするのか。

「シンちゃん、はいこれ」
「え?」
「それでレイのお化粧、落としてあげてね」
と、気前よく小さな瓶を投げてよこした。

「ありがとう、ミサトさん」
「それじゃね、ごゆっくりー!」

そういって、陽気に去っていくミサトさん。
いろんなことがあったし、久しぶりの明るい笑顔だった。

でも、僕はミサトさんほど笑えない。
重大な課題が待っている。

「さあ、行こうか」
「はい」

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「……シンジ? お前、あんときの碇シンジやないか?」
「トウジ、久しぶり」

僕は市民病院の入院病棟、その一室に訪れた。
そこには鈴原トウジの妹が入院していて、ずっとそこに貼り付いているという。

なんでも、トウジの妹は最初の使徒との戦闘に巻き込まれ、そして大怪我を……。

「わざわざ、おうたこともない妹の見舞いに来てくれたんか。めっちゃ嬉しいわ」
「いや、まあね」
「まあまあ、座ってや。すまんなあ、綾波まで。それにしても……」
「え?」
「偉いべっぴんになったやないか、綾波は」

トウジの開けっぴろげの賞賛。
しかし、レイには聞こえていない。
ミサトさんに見せたような反応は、この時は無かった。

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そして、トウジの妹の周りに小さな丸椅子を並べて、しばらく話をした。
「もう、中学なんか意味が無くなってもうてな。もうセンセより生徒の方が少ないっちゅう有様や」
「へえ……そうなんだ」
「俺ももうずっとここにおる。でないと、妹は一人になってしまうさかいな」

「どうして生徒が少なくなったの?」
「お前は知らんやろうな。大抵の奴は疎開に行ってもうてな」
「疎開?」
「ああ、海外にや。もう日本におったら危ない言うてな。それにしても」
「え?」

「綾波って、えらいべっぴんやったんやなあ。うらやましいのう」
「いや、そんな……」

その綾波、いやレイはじっと何かを見ていた。
何か、なんて言ったら悪いな。
それはベッドで寝ているトウジの妹だった。

その妹さんもまた、マジマジとした目でレイを見ている。
包帯だらけで、衰弱したその姿で。

「トウジは疎開しないの?」
「いや、妹を動かすのが難しいいうてな。政府からの普通の援助じゃ無理なんやと」

ああ、費用がかかるのかな。
あるいは、パイロット候補として引き留められているのか。

「正直いうてムカツクわ。政府の責任やないかと、言いたいところやけど」
「……」
「命懸けで戦っとるあんたらの前ではよういわんわ」
「いや……」

「でも、ちょい安心したわ。お前も綾波も元気そうやからな」
「え?」
「ずっと戦い続けとるお前らのこと、気にしとったんや。クラスのみんなも気にしとったぞ」
「そう……ありがとう」
「なあ」
「え?」

「シンジ。なんか、辛いことでもあったんか? せやからここに来たんやろ?」
「……」
「そうやないと、忙しいやろうお前が来るはずあらえんし」
「まあ、そうだね」
「悩みがあるんやったら、何でもいうてみ? 俺でよかったら力になるで?」

見透かしたように僕に言うトウジ。
でも悪いけど、ハズレだよ。
結構、おしいところまで来てるけど。

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「いや、トウジ。そうじゃないんだ。怪物退治も上手くいってる」
「……ほんまか?」
「でないと、綾波にお洒落させてる暇なんかないって」
「そうか、そやろな」

トウジは苦笑い――嘘だと思ってるな?
ならば、嘘ついでに。

「実はね。君の妹さんのことも聞いてて、特別援助を出すように要請しようと思ったんだ」
「え? そ、それはホンマか?」
「うん、僕から連絡して今すぐにでも疎開できるように手筈するから」
「手筈するって、むっちゃ偉そうやな、お前。まあ、ホンマやったら有り難いけど」

偉いよ、そりゃ。
NERV総司令様なんだから。

僕はレイを伴って立ち上がる。
「じゃあね。君の妹さんの面談は終わり」
「なあ、ホンマか? 手筈するってそれホンマなんか」
「うん、ホンマ。でも、上手くいかなかったらごめんね」

病室から出ようとする僕らを見て、トウジはあたふたとポケットを探る。
「ちょい待て、俺のメアド教えておくわ」
「ん、ああ……それじゃ言ってよ」
「ああ、ちゃうちゃう。赤外で送るから、それで受け取るだけでええねん」
「え? そんなの知らないよ。どうするの?」
「……高そうな携帯もっとって、そんなんも知らんのか。しゃーないのう」

そりゃ知らないよ。トウジが初めてなんだし。
でも、メールすることなんかあるのかな。
無いだろうな、絶対に。

「それじゃね、トウジ」
「おう! 絶対、メールくれよ! 約束やど!」

そして僕らの去り際、一言も話さなかったトウジの妹が僕らに手を振ってくれた。
可愛いな、トウジに似てなくて。
僕の答えは決まった。こんな彼らを巻き込める筈が無いじゃないか。

ん? あれ?
レイが、トウジの妹に手を振り返してる……。

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その後。

ミサトさんに話してた通り、レイを連れて食事に向かう。
電車に乗って第三新東京市からは距離を置いた小都市で。

やってきたのは、適当に選んだ天ぷら屋さん。
といっても、根が張りそうな高級料理店なんだけど。
大丈夫かな。お金はあるけど年齢的に僕らは中学生なんだし、門前払いを喰らいそう。

でも、
「どうぞ」
といって、そこの親方さんは笑顔でカウンターに僕らを薦めてくれた。

店は貸し切り状態だった。
僕達以外の客は誰も居ない。
店員さんも親方さん一人だけ。

「あの、肉類は抜きっていう注文は出来ますか」
「はい、もちろん。良い材料が揃ってますよ」

なんというか、僕には良い食べ物といえば肉類しか頭にないんだけど。
歳を取れば判るのかな。冬月さんみたいに。

そして、僕らの目の前にご飯やおみおつけ、漬け物が並べられ、
目の前の器に、揚がった順から天ぷらを並べてくれるという。
自宅じゃ出来ないな、こんなこと。
それに、おみおつけの味も格別だ。

しかし、お椀をすすったレイの一言。
「辛い」

それを聞いた親方さんは苦笑い。
「いや、これは手厳しい。お嬢さん、お吸い物に取り替えましょう」
「すいません、親方さん。普段、この子には薄味で作ってたので」
「そうですか、判りました。せいぜい気張らせていただきますよ」

しかし、レイは味の文句を言っただけで、親方さんの応対には無反応。
取り替えようと言われたのに、まだお椀を手から離さずにいる。
そのレイの手からお椀を取り上げながら考える。

いったい、どういう基準なんだろう。
レイが人に反応するのは。

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食事も終わり、支払いをしようと財布を取り出す。
しかし、親方さんは言う。

「いえ、お代は頂きません」

そう言って、親方さんは笑う。
いや、そう言われても困る。筋違いだし、どうせ自分のお金じゃないんだ。

しかし、親方さんは受け取らない。
「実は今日で店は仕舞いなんです。お二人さんは最後のお客さんです」
「そうなんですか……」
「もうお客さんも誰も来ないし、ここはもう今日でたたみます。明日にでもさっそくドイツに疎開です」
「……ああ、街があんな状態では、そうなっちゃいますね」

確かに、無理もない。
半壊状態の第三新東京市はともかく、周辺の街もまるでゴーストタウンの状態。
もはや日本にはどれだけの人が残っている事やら。
使徒襲来の本拠地なのだから。

「でもそれなら尚のこと、きちんと払わせてください。親方さんへの餞別に」
「こう申してはなんですが――お二人さん、あなた方はNERVの人でしょう?」
「え?」
「みんな知ってますよ。あなた方があの大きなロボットに乗って、妙な怪物と戦っていることを」
「……」

機密もあったもんじゃないな。
ここは本拠地なんだし、当然かも知れないけど。

でも、なんとなく嬉しい気がする。
レイの戦いが報われたような気がして。

そして、すぐにそれは悲しみへと変わる。
レイの本当の事情を知っている訳では無いのだから。

親方さんは話を続ける。
「天知る地知る、我も知っているなら皆に知れて当然です。あっしらはみんな知ってますよ。
 お二人が、命懸けで戦っていることを。だから、あっしから何かして差し上げたいんです。お二人に」
「……そうだったんですか」
「お二人へのはなむけです。どうか、あっしの奢りを受けて下さいな」
「ありがとう、親方さん」

はなむけ、か。
それは別れに使う言葉。
次の出会いを期待できる言葉でもない。

「それじゃ親方さん。ドイツでも頑張って下さい」
「へい、もし来られることがあったら、また食べに来て下さい。店を開いて待ってますから」

ごめんね、親方さん。
行くことは、まず無いと思う。

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「うん、そう……お願いできますか。はい、では」
僕が電話をしている間、レイは近くのベンチでじっと座って待っていた。

ここは公園。
既に日は暮れて、あたりは真っ暗。
晩ご飯を食べた後の時間だし、当然と言えば当然なんだけど。

僕は電話を終えて、改めてレイの姿を見返した。

「天ぷら、おいしかった?」
「うん……」
「明日にでも、僕が自分で挑戦してみるよ。あんなふうに上手く揚げられないかも知れないけど」
「うん……」

静かに僕に相づちを打つレイの、その姿。
まるで夢のよう。普段はTシャツかなんかを適当に着ただけの、性別もあったものじゃない格好だったのに。
スーツ姿のせいで制約を受けてるのだろうか、心なしか姿勢まで正しく見える。
ましてや、ミサトさんが選んだ突飛な口紅の色、初見では病的のようにも見えた青い髪、そして赤い瞳。
妖艶と呼ぶのはオーバーだけど、世の常ならぬ少女の、その姿。

なんだか、本当に夢を見ているようだ。
その少女はただひたすら、僕の次の行動を待っている。
煙るような瞳で、僕が来るのを待っている。

僕はゆっくりと、レイの側に座った。
そしてレイの唇を求めて、顔を寄せる。

急接近に、レイは少し驚く。
でも、あらがわない。

僕はそのまま顔を近づけ、そして……。

「レイ、聞こえる?」

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僕は、かすれ声でレイに囁いた。
ほとんど声にもなっていない、ちいさなちいさな囁き声で。

それに、レイは応える。
レイの勘はするどい。
僕に呼応して、ほぼ同じ小さな声で囁き返した。
僕がそうして欲しいことを、レイは鋭く察知してくれたのだ。

「はい」
「聞こえる? 聞こえるなら、聞こえると言って」
「聞こえる」
「それじゃ、レイ。僕のこれから言うことを良く聞いて」

こうして恋人同士が寄り添うようにしていれば不自然じゃない。
そしてこれなら、万が一に僕の唇を読める人が居たとしても、互いの顔で隠れて互いの口元が見えないはず。
なにしろ、僕には優秀なガードマンというお目付役がついているのだから。
もしかしたら、体に盗聴器が付いているのかも知れないけど、そうなれば仕方がない。
これは賭だ。

「レイ、もうすぐ君は死ぬ」
「え?」
「君の命は長くはない。もうすぐ死ぬんだ」
「……はい」

「死ぬと言うこと、判ってるよね。君だけじゃない、あの『水の中の君達』もだ」
「はい、判る……あ、やっぱりだめ」

「え?」
「私、死ぬのはだめ。死んでも、次の私が居ないのもだめ」

「だめと言っても、しょうがないことなんだよ。レイ」
「いいえ、だめ。私がいなくなるのは、だめ」

「どうして」
「シンジの世話をする人がいなくなる。シンジの世話をしている人は私だけ」

レイ、いったい何を言ってるんだ。
ああ、そうか。レイは僕以外の人と話したり出来ないから、判ってないんだ。

「実はね、レイ。僕の周りには沢山の人が居るんだ。だから……」
「違う。沢山の人は居るけど、シンジの世話をしているの、私だけ」
「……え?」
「シンジは一人。わたしがいないと一人になる。沢山の人が居るのシンジは一人。だから……」

判った。
レイの言いたいことが、判った。

レイは僕以外の人が見えない訳じゃない。
他の人の存在を知らない訳じゃないんだ。

そして改めて、僕がレイを失いたくない理由を実感した。
僕は孤独だった。
僕は小さい頃から、沢山の人と接しながらも孤独だった。

誰も僕のことを構ったりしない。話しかけたりもしない。
僕と接する人は僕を見ていない。僕を通して、父さんの顔と話をするだけ。
そう、僕が居なかった。
誰も、僕だけを見てくれる人は誰も居なかった。
僕そのものが誰の心の中にも居なかった。

だから、僕は存在しないに等しい存在だった。

そんな僕の前にレイが現れたんだ。
レイは僕の全てを理解してくれていたんだ。
僕の孤独をレイは理解してくれていたんだ。

そうだ。
だからこそ最初に出会ったその時、僕をまっすぐに見つめるレイの赤い瞳に惹かれたんだ。
僕はレイに出会い、そして生まれたんだ。

今にして、初めて判った。
そう、今頃になって。

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「レイ、ありがとう。本当にありがとう」
「……」
「でも、でもね、レイ」
「でも、私は死ぬの?」

……。

「そうだ。それも近いうちに」
「どうして?」

「君のその体のせいだ。君は普通の体とは違うから」
「……うん」

「あの『水の中の君達』もそうだ。もう長くは生きられない」
「……」

「だから、君が死んでも次の君もそう長くはない」
「……」

レイは長い沈黙の後。

「どうして?」

どうして、レイは死ななければならないのか。

答えられない。
本人のことでも、とても僕の口から本人に言えることじゃないんだ。

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時間を遡って今日の午前中。
アスカは僕に説明してくれた。
レイの注射の真実を。

(あのね。ファーストの受けている注射について、アタシが調べてみたの)

(簡単には判らなかったわ。あの医師が持っていたアンプル。そのラベルと同じ薬品が売ってないかどうか)

(売ってたわ。4,980円でね)

(って……そんな訳がないでしょ? 街で買える程度のクスリで、それを毎週打たないと死んじゃう? ありえない)

(だからね。アタシの元教官に聞いてみたの。そんなクスリが有りますかぁ? ってね)

(そしたら、考えられることがたった一つだけだそうよ。薬品名は判らなくても、間違いないってさ)

それから、話を続けるアスカのその目。
その鋭く僕を胸中をえぐるような眼差しは、絶対に忘れることが出来ないだろう。

(よく聞きなさいよ。そのクスリはね、人体からしか採取できないんですって)

(その採取された人は、生きていけなくなっちゃうんですって)

(シンジ、聞いてる? 何度でも言うわよ?)

(つまり、普通の人だったら精製できる物質、それをその子は自分の体では精製できないんじゃないか? ですってさ)

(だから生きている人を殺して、その子が生きていくために移植してるとしか思えないんですって)

アスカ、いくら本当のことだからって、何も僕に言わなくてもいいじゃないか。
しかも、鬼の首を取ったように、得意げに。
もう、その場で撃ち殺してやろうかと思った。

(さあ、あの子をどうするのよ、碇司令。人類を守るために、人類を犠牲にして、その子を生かしておくつもり?)

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アスカの言うことは間違いないだろう。
アスカはあれほどレイに対して共感していたのだ。
パイロットとなるために作られた同志として。

僕は、レイにどういえばいいのだろう。
いや、絶対に言えない。

他の人の体を犠牲にして、自分が生きているだなんて。
それを知ったら、僕ならこの場で命を絶つかもしれない。

「レイ、悲しいことだけど、どうしようもないことなんだ。君の体は、長く生きてはいけないように出来ている」
「……そんな」
「だからね、レイ」
「……?」

「僕は君に死ねと命じる。もちろん今じゃない」
「……」

「君がもっとも役に立つ場面で死ねと命じる。その理由は、君の死を無駄にしたくないからだ。
 君が生きていたことを無駄にしたくないからだ。判るかな」
「そんな……」

「僕はもう、知らないうちに君が死んでしまうなんてことが耐えられない。
 いつか来る日を待つのが怖いんだ、だから」
「……」

「僕が君が死ぬべき時に死ねと命じる。あるいは君を殺す。僕の手で」

その話を聞いていたレイは、長い沈黙のその果てに。
その赤い瞳に涙を滲ませて、僕に囁いた。

「判った。シンジの言う通りにする」
「……」

「シンジが良いと思うときに、私にそう言って」
「判った。ありがとう、レイ」

僕はレイの手を握った。
「ありがとう、レイ。そして、この僕を許して欲しい。君に死ぬことを命じる、僕のことを」

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今日という日は、いろんなことがあった。

ミサトさんとレイのやりとり。
トウジと、その妹さんとの出会い。
天ぷら屋さんの親方との出会い。
なんだか、久々に楽しい気分にもなれた。

そして、レイの成長ぶりに驚かされた。
レイが他の人とコミュニケーションする様子にも驚かされた。

でも、悲しいこともあった。
トウジとは二度と会えないだろう。むろん、その妹さんにも。
親方さんの天ぷらを食べることは二度と無いだろう。
ミサトさんもまた、悲しむだろう。
レイの成長ぶりも、全て無駄になるだろう。

僕の気持ちを慰めてくれるはずの楽しいこと全てが、苦しみへと変わっていく。
レイの体が、そうであるために。
レイがそのように生み出されてしまったために。

そうでなかったら、レイはどこまでも成長できるのに。
アスカが言っていたように、僕以外の人も選ぶことができて、その人の花嫁になることだってできるのに。

そうしたのは一体誰?
こんなふうにレイが生まれてしまったのは何故?
何故、僕とレイは出会ってしまったんだろう。

そうだ、リツコさんだ。
僕をこんなに追いつめたリツコさんのせいだ。
そして、リツコさんをそうさせたのは、父さんやNERV全ての人のせいだ。
人類存亡のためだと言って、レイという存在を生み出してしまった人類全ての責任だ。

そして、アスカ。
君を決して許しはしない。
レイをないがしろにしたら承知しないと、その口で言っておきながら。
レイに恐ろしい死刑宣告を下したことを。
そして、僕にその死刑執行を命じたことを。

僕は絶対に許しはしない。
レイに関わるすべての人を。

僕は決して許しはしない。
人類補完計画なんて、絶対に遂行させない。

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これまでのところ――。

夜の公園での、シンジとレイの会話は誰も膨張することは出来なかった。
二人が何をして、何を口にしたのか。
それを全て報告するように命じられている者も居た。
実を言うと、シンジやレイの持ち物にも、それなりの盗聴器具が取り付けられていた。
しかし、レイとの会話やシンジの宣言は、彼の用心深さのお陰で誰にも知られることは無かった。

その、シンジの宣言。
それはレイにすら聞こえない小さな小さな呟きだった。

「僕は彼らを許しはしない。必ず成し遂げる」

その時、シンジの目はよりいっそう鋭さを増した。
まるで全知能を発揮したリツコのように。

「僕は必ず、彼らに復讐してみせる」








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最終更新:2009年06月08日 22:54
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