リツコが本部に戻ったのはアスカがシンジに潰された、その後のことだった。
「あれ以来、セカンドチルドレンは正気に戻りません。ベッドに拘束し、鎮痛剤を投与。点滴を施行中」
という、医務からの報告。
リツコは顔面蒼白でその報告を受け、
「そう、判ったわ」
と、辛うじて返答したのみ。
「あ、あの、先輩」
背後から声がする。
声ですぐ判る。マヤだ。
しかし、リツコは容易には動かない。
「先輩、どうもシンジ君がアスカに何かしたみたいなんです。いったい何があったのか……」
「そうね」
「あ、あの、シンジ君は……」
「……」
聞かれても答えられない。
シンジとアスカの言動を盗聴していたなどと、言えるはずもない。
リツコは全て聞いていた。シンジがアスカを落とす、その一部始終を。
(シンジ君は、アスカに仕返しをしたように見えるけど、でも私には判る。
あれは私に対するものだ。私がいきなりあの部屋に連れて行ったのを、そっくり真似てアスカに仕掛けたのだ)
リツコは思わず、ゾクリと身を震わせる。
これから始まるシンジの復讐を恐れて?
いや、違う。
お前の本当の姿を見てみろと、鏡を見せられたような嫌な気分。
そんな嫌な気分に、リツコは寒気を覚えたのだ。
(復讐か。そうね、私はシンジ君に辛い思いをさせてきた。全ては私の願望のため。
どうのような結果であれ、所詮は私一人の願望でしかない。いや、妄執と言っても良い。
あるいは、これもまた私の復讐、とも)
「あの、先輩?」
「ん、ああ、何かしら」
マヤに声を掛けられて、リツコは思考を強制中断。
もっと情報を整理しなければならないところだが、仕方がない。
部下を大勢かかえている立場だけに、それ相応の動きを取らなければ。
そうせざるを得ない自分の立場が、やはり呪わしくて仕方がないところ。
しかし、ミサトも冬月も除いてしまったのは他の誰でもない、自分自身なのだ。
(全て、自分の蒔いた種、か)
などと考えている場合ではない。
ならば拾い集める他はないのだ。
「マヤ、シンジ君は何処?」
「それが携帯が繋がらないんです。多分……」
「ああ、執務室ね。あそこではどんな電波でも送受信は不可能だから」
セキュリティーに関して万全を誇るNERV総司令執務室。
それはシンジの父親によって設計され、ゼーレの手でも届かない鉄壁の城。
リツコは内線を入れてみようとしたが繋がらない。
いったいシンジは、あの部屋にこもって何を考え、何をしようとしているのか。
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その、総司令執務室。
広大、かつ不気味なその空間をカツ、カツ、と歩む者。
シンジである。
天井、そして床にも描かれた魔方陣。
それは邪悪なものではないが、シンジは知らないだろう。
それこそ天界の楽園にあるという「生命の樹」を描いたもの。
それがシンジにはさっぱり意味が判らないのだが、これだけは理解できることがある。
それはシンジの父親が描かせたもの。
そしてそれは、人類存亡を賭けた戦いには不要なもの。
ならば、それは何を意味するのか?
判るはずもない。ことさら、深い知識のないシンジには。
ただしこれだけは判る。
NERVの存在意義は、使徒退治のための組織ではない、ということだ。
シンジは部屋の中央を見た。
そこにはレイが寝そべり、眠っていた。
今のレイのその姿、それはいつもの性別を無視した適当な軽装ではない。
この間のスーツともまた違う純白のサマードレスで、レイを見違えるほどに女性らしく見せていた。
そしてシンジは父親の黒い制服を肩に羽織り、まるで黒い影のような姿でレイの側へと近づく。
シンジは苦笑いする。
これではまるで下手なコスプレだ、と。
魔方陣の中心で眠る生け贄の少女、その元へと登場した一人の黒魔導師。
なんだか子供がごっこ遊びをしているようで、思わず恥ずかしい気分を味わった。
その時、デスクの方からアラームが鳴る。
内線だ。多分、リツコか誰かだろうか。
しかしシンジはそれを放って置いて、最前から点灯している別の呼び出しを選択した。
すると執務室は一瞬で暗闇に包まれる。
そして、浮かび上がる一人の男の姿。
キール議長であった。
『見事な手並みであったな、シンジ君』
シンジはそれを軽く聞き流しながら、ゆっくりと電子会議の席に着いた。
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「よしてください、キールさん。今回の使徒殲滅なんて全然たいしたことないじゃないですか」
と、シンジは軽く謙遜する。
「ミサトさんや冬月さん、リツコさんが居ないから、皆の真似をして指示してみただけです」
確かにシンジが上げた人物が居れば、自分の口出しする隙など無かっただろう。
なんといっても14歳の子供。仮に才覚に恵まれていたとしても、経験の深い彼らに叶う筈はない。
しかし、キール議長は言う。
『いや、それも決して悪くはなかったのだがな。私が見事と言っているのは、そのことではない。
セカンドチルドレンを落とした、あの手際だ』
「あ、ああ……」
それを聞いたシンジは思わず両手で顔を覆い隠し、嘆息する。
「しかし、キールさん。自分でも、あんな酷いことになるとは思ってみませんでした」
『ん? 後悔しているのかね』
「僕はアスカが憎かった。レイは人の犠牲の上で生きていることを僕に告げたアスカが憎い。
しかしアスカは何ほどのことをしたというのでしょう。彼女はただ、僕に真実を告げただけです」
『ふむ……』
「アスカにそれを教えて貰わなければ、無邪気にNERVでの生活をむさぼっているところだった。
そう考えれば、アスカは感謝すべき相手であり、その相手に酷いことをしたと考えるしかありません」
『……』
語り続けるシンジを注意深く見守るキール議長。
まるで醸した酒の仕上がりを味わうかのように。
「アスカにはお返しに、レイの秘密を見せてやるだけにしようと思ってました。
ところが、あれほどにアスカを陥れる結果となるとは……」
『しかし』
キール議長は声を潜めて、こう言った。
『君はそれを楽しんだ。そうだろう?』
シンジは苦笑い。
「その通りです。でも、キールさん……大人相手、例えばリツコさんには通用しないでしょうね」
『まあ、そうだろうな』
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シンジは驚くほど素直に自分の気持ちを語り続ける。
無論、キール議長が細心の注意を払って聞き手に回っているお陰なのだが。
「僕は憎い。アスカだけでなく、このNERVの人々の事が憎い。人類全てが憎いんです。
レイのような存在を生み出して、その彼女を足がかりにして生き延びようとする彼らが憎い。
人類が救われ、生き延びた。そう彼らが思った瞬間、レイは捨てられる。
そう、捨てられるんです。人の犠牲のもとに生きているレイなど、なんで生かしておく必要があるのでしょう」
『そうだな。その通りだ』
「僕はむしろ出会いたくなかった。しかし、出会ってしまった。でも――」
『でも?』
「僕はレイに出会い、救われたんです。僕はレイに出会うことで、生まれて初めて孤独から癒されたんです」
『……だから、失いたくない?』
「しかし、失われてしまう。そうなんでしょう?――何故ですか。何故、レイは生まれてしまったんですか。
何故、僕はレイと出会ってしまったんですか」
『ふむ……そうだな』
「キール議長」
シンジがふいに、話を変えようとしている。
『何かね』
「人類補完計画とは、何ですか?」
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(これは、チャンスだ!)
そのシンジの電子会議を傍受していたリツコは、心中で叫ぶ。
恐らく厳重なセキュリティーが組み込まれて居るであろうその会議。
それをリツコは死力を尽くして傍受する方法を編み出していた。
その会議の動向こそ、自分の計画を左右する。
リツコにとって、絶対に押さえておかなければならない情報であったのだ。
(まだ早いと思っていた。しかし、今だ。今のシンジ君に働きかければ、一気にこちらに傾く)
(キール議長はまだ明かさないだろう。人類補完計画が何を意味するのかを。
しかし、仮に明かしたとしても私には自信がある。絶対にシンジ君をこちらに傾ける方法がある。
なにしろ、自分の願望と満たすと同時に、人類を守る結果にも繋がるのだ。
それを踏まえればシンジ君は必ず同意する)
(今、シンジ君がキール議長に語ったことは、正しくゼーレの意志に添うものだ。
ぼやぼやしていては、ゼーレにシンジ君が奪われてしまう)
(大丈夫。シンジ君はレイを愛している。いや、もはや自分の半身とも思っているはず。
ならばこそ、私の計画が成功する。その計画は――)
(ただ、伝えるだけで良い。もう一つの補完計画の方法を、ただ伝えるだけで良い。
鍵は整っている。使徒殲滅の後にはレイは生きていけないことを、シンジ君は既に知っている)
(そしてもう一つの鍵、決してレイが母親のクローンであることを知られてはならない)
(ゼーレが明かす筈はない。それは第二の碇ゲンドウを生み出すことになるからだ)
(いける。私は勝てる。あと一度だけ、一度だけシンジ君と話す機会さえあれば)
しかし、当のシンジは執務室の中。
シンジが望まぬ限り連絡手段は存在しない。
(リツコ、待つのよ。無理にこじ開けては駄目。落ち着いて機会を待てば……)
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『シンジ君』
キール議長はゆっくりと語り始める。
『まず、答えよう。人類補完計画、それには君にも参加して頂く』
「では、その内容は?」
『順を追って説明しよう。君の先程の嘆きに答えると共に』
「僕の、嘆き」
シンジはゆっくりと聞き返す。
キール議長は両手を祈るように組み合わせて、こう語った。
『本来、人は孤独であるものだ。孤独とは何か? それは自分が一人ではない状態を指す。
しかし、人は孤独。なぜなら、誰かとの心を共にすることが出来ないからだ』
「……?」
『友と友情を結び、恋人と愛を語り、夫婦となって家庭を築き、子供を産み育てる。
それらは孤独と相反するように見えるが、孤独ではない様に見えるだけだ。
夜を徹して語り合い、体を許しあうことで、孤独ではない証を得たと感じたとしても、ただそう感じただけの思い込みだ。
君はずっと一人だったと言う。しかし、例え友や恋人、妻や子供が居たとしても、孤独であることには変わりない』
「……」
『友情とは遊びや生活の困難を取引し、恋愛は自分の性欲を見たし、その結果が家庭であり、出産である。
傍から見れば一人には見えない。しかし、心の中の全てまで誰かと共にあることなど不可能。
人は常に孤独であり、他人との取引と共に生きている。それが成立せねば生きてはいけなくなる、ということだ』
シンジはゆっくりと顔を上げた。
「その孤独を満たすのが、人類補完計画だと?」
キール議長は笑って答える。
『その通りだ。しかし焦るな、シンジ君。君はようやく入り口に立ったばかりなのだ』
どうやら、キール議長は時間を掛ける必要があると判断したらしい。
何しろ14歳の子供が相手。概念を理解させるだけでも相当の手間が掛かるだろう。
『続きはまたいずれ。今日、私が話したことをゆっくりと噛みしめたまえ』
「はい」
『では、また』
そして、議長は姿を消す。
それを見越してシンジは大きな溜息。
そうだ、レイを起こさなくては。
そうシンジは思い立ち、なにやらビニール袋をぶら下げて眠り続けるレイの方へと歩いていく。
「レイ、ほら起きてよ。おにぎり握ってきたんだ。袋はアレだけど本当に僕が握ったんだってば」
そう言ってレイの体をゆする。
そうしながらも、シンジは溜息をもう一度。
「なんだい、よく判らない話ばかりして。僕が孤独だって? ありえないよ。レイがこうして居てくれる限り」
やがて、レイは目をこすりながら目覚める。
その様子を眺めながらシンジは水筒のお茶を取り出した。
議長の判断は間違っていた。
どうにもシンジを買いかぶりすぎたか、もっと早くから手を打つべきであったのだ。
しかしレイは希に見る存在。シンジが孤独から癒されていることを信じて疑わないのも、無理はない。
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それからシンジは執務室から出ようとしない。
何を考えているのか、何も考えていないのか。
実は、大して何も考えていない方が正解。
アスカを追い落としたことも、実は計画の上で行ったわけでは無かった。
たまたまチャンスが訪れ、それに牙を剥いただけだったのだ。
リツコや他の者が先を読んで手を打つならば、シンジはまったくの自然体で機会を待つだけ。
チャンスがあれば即座に食いつく。ただそれだけだったのだ。
しかし何時までもそうして機会を待ちながら、執務室に籠もっているわけにもいかない。
食事も取らなければならないし、レイも治療が必要だ。
しかしシンジは考えている。
今、この瞬間にチャンスが来れば、思い通りの結末を向かえることが出来る、と。
そして、そのチャンスはすぐに訪れる。
果たして、それは誰のとっての好機なのか。
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最終更新:2009年03月04日 18:44