多分、自殺しようと思ってた。



幹線道路の歩道橋。
絶え間なく車が走るのを見下ろしていた。
「凄いよね」
何時彼が隣に立ったのかまるで気が付かなかった。
声を掛けられて我に返る。
「川の急流みたいでさ」
ちらりと見上げてみた。
逆光になって細部は良く解らなかったが、頭一つ分高い、同じ年頃の男の子。
私がしていたように歩道橋の下を眺めている。
なんとなく気まずくて、私は足早にその場を立ち去った。



いじめにあっていた。
原因は些細な事。仲良しグループ内でのちょっとした行き違い。
でも、気が付いたらクラス全員で私を無視するようになっていた。

その歩道橋は通学路の途中にあった。
普段は割と人通りがある。
けど、黄昏時のほんの一瞬だけ、人通りが途絶える時がある。
その時間にそこを通るようになっていた。
狙ったわけじゃなく、本当に偶然に。



夕日を背に歩道橋から車の流れを見下ろしていたら、視界の端ですっと影が動いた。
「凄いよね」
聞き覚えのある声。欄干に添えられる細い手。
「毎日毎日沢山車が走ってる」
それだけ言うと、彼は押し黙ってしまった。
私も一言も話さないまま、視線を車道から離さずにいた。
車道からの騒音さえぱたりとやんでしまったような感覚を覚える。
車道に映し出される、歩道橋とそこに並ぶ二つの影。
陽が沈んで消えるまで、消えた後も、何も考えずに眺めていた。

「えーやだもー!」
大きな声が耳に届き、はっと顔を上げた。
楽しそうに談笑している他校の女の子グループが階段を上ってきた。
彼のいた側を見やるが既に姿は無い。
私も逃げ出すようにその場を離れた。



歩道橋の脇に供えられた花が目に入った。
まだ新しいものだった。

ここで誰かが死んだんだ。
悲しんでる誰かがいるんだ。

それがとても羨ましく魅力的に感じた。



歩道橋の真下を見下ろしていた。
ひっきりなしに走る大小さまざまな車。
「凄いよね」
声を掛けられて漸く、ほんの少しだけだが欄干から身体を乗り出して見下ろしていた事に気が付いた。
気まずさを覚えつつそろっと身体を下ろす。
替わりに彼が欄干に腕を組むようにして置いた。
「ここから誰かが飛び降りて死んでも、この流れはすぐに元通りになるんだよ」
考えを見透かされたような気がした。
彼をそっと見上げてみた。最初の日と同様に、車道をまっすぐ眺めている。
「何も起こらなかったように」
ぽつりと呟いたその言葉に、何も感じていなかった車の流れに急に不安を覚えた。

その後は前回同様、二人とも黙ったまま、二つの影が消えるまで眺めていた。



クラスで孤立しても学校へ通っていたのは、いじめが私のクラス内限定で、別のクラスには仲良しの子がいたからだ。
でもある朝登校したときに見つけた。
『ごめん
もう話しかけないで』
靴箱の中に忍ばせてあったメモの切れ端につづられた文字と、携帯サイトのアドレス。

恐る恐る覗いたそこでは、沢山の『誰か』が私の事を嗤っていた。



雨が降っていた。
体の芯も心の底も、冷え切っていた。

学校を飛び出してからどうしていたのか覚えていない。
気が付くと歩道橋から下を眺めていた。

雨のせいか人通りは無い。

話がしたかったのかもしれない。彼と。
でも待てなかったのは、彼にさえ拒絶されるかもしれないと恐れたからだ。

車の流れが川面に見えた。
くらいくらい水の底にひっそりと沈みたかった。

欄干から身を乗り出した。
誰かの手が、後ろから私の肩に触れた気がした。

手が離れた瞬間。
車の流れが一瞬途切れ。
アスファルトに広がる赤い色と。
彼の顔が見えた。

浮遊感と共に風景がゆっくりと前から後ろへ流れていった。



目を開けると歩道橋の上にいた。
空は青い。お昼過ぎの、のんびりとした時間。
欄干の向こうで流れる光景をぼんやりと見下ろす。

嫌な夢を見たんだと思った。
友達に裏切られた事も、その後の事も。

今日は何故か誰も通らない歩道橋の上。
誰かが通れば逃げられたのにと、心の片隅が呟いている。
ここから逃げなきゃいけないと、違和感を覚えた理性が叫んでいる。
悪夢についてグルグルと考え続けている頭は、どちらの声も無視した。

事実だとしたら。
もしもあれが現実に起きたとしたら。
もう一度。


モウイチド、トビオリヨウ。


10
「凄いだろう」
聞きなれた声に思考の海から引き戻された。
いつの間にか夕方になっている。
「ここはね、とても静かなんだ」
私の後ろから横へ、長い影が伸びている。
夕日に照らされた歩道橋の上。
「誰も見えない。何の声も聞こえない」
影の足元へ、その先へ、視線を動かす。
「時間は動いてる。空はちゃんと一日を繰り返す」
地平線にかかる太陽が眩しい。
影の主はその太陽の光に隠れてしまっているのだと、最初は思った。
「でも誰もいない」
でも誰もいない。
稜線へ光が飲み込まれていっても、影の持ち主は全く見えなかった。
「太陽に照らされた人の影だけが見える。車も影だけが流れてる。そして人が発する音は何にも聞こえない」
誰もいないところから、声だけが響いてくる。
「『ここ』から出るには、誰かを身代わりにするしかないんだ」
声が嗤っているように感じた。


11
全身に震えが走った。思わず両手で自らを抱きしめる。
そこで初めて震えが恐怖だけのものではないことに気が付いた。
私の全身はぐっしょりと濡れていた。
逃げ場を求めて視線を走らせる。
だが、働き出した理性は、見たくない現実を突きつけてきた。
昼夜を問わず流れ続けていた無数の車は、一つとして見えなかった。

すくんで動けない私に足音が近づいてくる。
「僕は自由だ。今日から君が『ここ』に縛られるんだ」
耳元で囁く声。

最後の瞬間に見た、彼の顔を思い出した。
そこに浮かんでいたのは――『嘲笑』だった気がする。


12
どれくらいの間立ちすくんでいたのだろう。
空には星空が瞬いている。
けれど歩道橋に設置されている照明は、いや、それどころか街全体が暗いままだった。
人のいる気配は何処にもない。何の音も聞こえない。

やがて夜が明けた。
星が消え、空が明るくなった。

いつもなら通学通勤する人波で賑やかな歩道橋の上は、静寂に包まれたままだった。
どれだけ待っても、私しかいなかった。

本当の『孤独』が支配する世界。

私は、絶叫していた。


13
突然地面が消え、視界がぐるぐる回転した。
襲ってきた浮遊感から逃れようと無我夢中で手を伸ばした。
何かに腕を掴まれた。

ぽつぽつと何かが顔に当たっている。
よどんだ重い色の雲から小さな粒が落ちている。
その僅かな隙間から、やや赤みがかった空と、眩しい太陽が覗いて見える。
スポットライトのように光が降りている。
私を照らしている。

滞ることなく走る車の群れ。
そこに、影が映っていた。
歩道橋と、そこにぶら下がる私と。
私の手を掴む、見えない誰かの姿。

凄い力で一気に引き上げられた。

歩道橋の上で崩れ落ちそうになる私の身体を、誰も支えてはいない。
でも、地に映し出された私の影は、確かに彼に抱きしめられていた。

太陽はすぐに雲に覆われ、止みかかっていた雨が再び降り出した。
彼の影も、雲の影にまぎれて消えてしまった。


14
丸一日行方不明になっていたらしい。
学校から飛び出し、雨の中を彷徨う姿は目撃されていたので、大騒ぎになっていた。
両親に事情を話し――もっとも空白の一日については詳細を説明しても信じてもらえないだろうと思い、
数駅離れた繁華街で彷徨っていたと説明した――何だかんだあって、一年休学する事になった。

学校以外で新しい事に色々チャレンジしているうちに、本当に心許せる友が出来た。


あの歩道橋には幽霊が出るらしい。
寂しさの余り仲間を欲していて、既に何人も歩道橋から突き落とされて殺されたらしい。
そんな噂を聞いた。
以前あの歩道橋で飛び降り自殺があった事も知った。
気になって調べてみたが、十年以上も前に、少年が一人亡くなっているだけだった。
顔や名前はわからなかったが、なんとなく彼の姿を思い浮かべた。

あれ以来、彼の影は一度も見えなかった。


15
大学進学を期に故郷を離れ、数年後。
私は心理カウンセラーとして歩き始めていた。

親友と故郷で久しぶりに会ったその帰り。
貰った小さな花束を手に、ぶらぶらと懐かしい町並みを眺めながら歩いていた。

黄昏時。
ふと道路に映る影に目が行った。
影が二つ並んでいる。
見上げてみた。
あの歩道橋だ。そこの欄干から女の子が車道を見下ろしている。けれど、そこにある姿は一人だけ。
二、三度、歩道橋の上と、その影とを見比べた。
もう一つの影の主は矢張り見えない。
彼は、『生きている』人には見えない。

やがて日が落ち、全ての影は一つに溶けあって消えた。

暫くしてから少女が歩き出した。
私は歩道橋の脇へ花束をそっと添えると、少女の小さな背中を追いかけた。
最終更新:2011年03月06日 09:45