この前、久しぶりに実家に帰ったときの話。

その頃、仕事や私生活でトラブルが続いており、精神的に不安定になっていた。
周囲からの強い勧めもあり、渋々数日間休暇を取ったものの、特にやりたい事も無い。
とりあえずは久しぶりに帰省し実家でのんびりしようと考えていた。
だが、30半ばでまだ独身だと親の話題は縁談だ何だとそっちに流れる。
流していたがだんだんそれも煩わしくなり、その日は夕食を一人で済ますとさっさと夜の散歩に出た。
故郷は地方都市から少し離れた半端な田舎町。
懐かしく古臭い町並みと、それを切り取るように所々で道路が広く整備されたり新築家屋が建っている、そんな環境。
そんな町を、思い出に浸りながらゆっくりと見て回った。
そういえば、ちょっと奥まった一角に、通っていた保育所がある。
中庭には大きな桜の木があった筈だ。丁度花見時期だったし思い出しついでに見に行った。

いい感じに咲きかけた桜が、遠目にも白く浮き出ているのが見えた。
足取り軽く近寄り、肩よりやや低い程度の塀の上から中を覗き込む。
こんなに狭かったっけ。
しんと静まり返った無人の保育所と記憶の中とのそれとは思ったよりもかけ離れていた。
人気が無いのを幸いと、塀を乗り越え中庭に入り桜の下に腰掛けて、保育所で過ごした頃の記憶を思い返す。
今とは違って毎日が楽しい事ばかりだった気がする。
唯一つを除いて。



「何年経ってもやんちゃは治りませんね」
突然背後から響いてきた不機嫌な声に、思わず悲鳴を上げそうになった。
慌てて立ち上がり振り返る。見覚えのある人物が桜を挟んで反対側に立っていた。
「よう君でしょう?すぐにわかりました」
スーツ姿の老齢の女性だ。後頭部で一つにまとめて結い上げた白髪交じりの髪、薄化粧、そしてまっすぐ伸びた背筋。
丁度想像していた姿がそのままそこに立っていた。
「はな先生…」
じんわりと冷や汗が滲む。思わず直立不動の姿勢になる。多分顔も引きつっているだろう。
鋭い眼光といつも不機嫌な様子と、特に悪戯する子供に対する厳しい生活指導――怒鳴ったり手を上げたりするんじゃなく、ガッツリ目線を合わせて延々と説教する――に保育所に通う園児に恐れられていた人物だ。
因みにやんちゃを通り越して問題児だった俺は、非常にお世話になった。
「長くここで子供達を見ていましたが、貴方ほど元気のいい子はいません」
当時のように、まっすぐ目を合わせてくる先生。顔は相変わらず不機嫌そうだ。
俺のほうが背が高くなり、先生を見下ろす格好になっていたが、それでも威圧されてしまう。
「う…済みません…」
これから延々始まるであろう説教に身を竦ませていたが、予想に反して先生は目を伏せると静かに視線を建物の方へと移した。
「本当に、貴方はいつも元気でした。生傷も悪戯も絶えなくて先生達を困らせてばかりで」
時々沈黙を挟みつつ、静かな口調で当時の思い出を語る先生。
俺も、緊張感は最後まで拭えなかったが、次第に先生の思い出話に相槌を打ったりするようになった。
子供の頃は怖い印象しかなかったのだが、今こうして話を聞いていると実際は子供の事を本当に気にかけている優しい人だ。
横顔が柔らかく見えるのも気のせいではないだろう。

どの位そうしていたのだろう。
ふと、先生がこちらを振り返った。
「貴方は、やんちゃでしたが悪い子ではありませんでした」
まっすぐこちらを見つめる目。心の奥底まで見透かすような、強い眼差し。
「芯のしっかりした、強くて優しい子です」
声は説教する時の調子になっている。
でもなぜか、今回は威圧感を覚えなかった。
「貴方は何も変わっていません。どんな困難も乗り越えられる強さを持っていると私は知っています。だから背筋を伸ばしなさい」
「は…はい!」
現在抱えている問題を思い出し気が重くなりかけたものの、力強く言い切られたせいかふっと気が楽になった。
俺も強く頷いて返す。
ほんの一瞬だが、先生の表情が緩んだ。一度も見たことの無い、穏やかな微笑み。
だが、すぐに元の生真面目な顔に戻る。
「さあ、夜更かしは身体に毒です。すぐに帰って休みなさい」
まるで子供扱いだな。
苦笑を覚えたものの、こちらも大真面目に返事を返すと、一応先生に了承を得てから塀を乗り越え、家路に着く。
角を曲がる手前で一度だけ振り返ってみた。
闇にまぎれて先生の姿は見えなかったが、ぼんやりと見える桜の下でこちらを見送ってくれていると感じていた。



早く朝食を食べろと母親に叩き起こされた。
睡眠不足ではあったがなんだか気分がいい。すぐに起き出すと身だしなみを整えて食卓に着いた。
「今日は機嫌が良いのねぇ」
親にもいぶかしがられた所を見ると、今まで自覚は無かったがかなり腐っていたらしい。
確かに昨日までならヒステリックに怒鳴り返していた気がする。
「そういえば、久しぶりに保育所行ってみたんだよ」
朝食を腹に収めながら昨夜の話をしようとした。
のだが。
「ああ、何にも無くて驚いたでしょ?こないだから解体始まってたものねぇ」
「…は?」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
「?あんたの通ってた所、何年か前に閉園になっちゃったのよ。で、こないだから建物も壊して今は殆ど更地になっちゃってる筈よ」
後は殆ど覚えていない。
気が付くと、保育所跡へ立っていた。
建物があった場所には、替わりに重機が居座っていた。残っていたのは塀と、小さな植木が数本と、大きな切り株だけ。
昨夜とはまるで違うその光景を、心配した親が迎えに来るまで呆然と眺めていた。
家に連れ帰られる間も混乱したままの俺は昨日の事を必死で説明した。
「だってさ、昨日は桜咲いててさ、はな先生とも色々話してさ。そうだ、先生に聞けば――」
母親は困った様子で俺に言い聞かせるように告げた。
「はな先生っていう方は、いなかったわよ」
「そんな…」
証明しようと家に駆け込み、物置から引っ張り出した卒園アルバムを確かめる。
だがそこには、昨日見たはずの懐かしい顔は存在しなかった。

薬を飲んで一眠りして。起き出した頃には夕方になっていた。
ひょっとしたら、子供の頃も昨夜も夢を見ていただけなのかもしれない。
自分の中でそう決着つけようとしてみたが、どうしても納得できないでいた。
「そういえば」
枕元まで夕食を運んできた母親が、思い出したと話し始めた。
「昔、保育所に通ってた時も、あんたはよく『はな先生』の事話してたわ。
何して叱られたとかこれして叱られたとかそんな話ばかりで、あんたは悪さばかりしてたから申し訳ないと思ってたし。
一度ちゃんと謝っとこうと思って会いに行ったのよ」
食器を並べる手が止まる。
「昔の所長先生でそういう方が居られたそうだけど、今は該当する先生は居ませんって言われたの。
けど、あんたみたいに『はな先生』に叱られたっていう子が他にもいるらしくて。
誠実で本当に子供思いの先生だったらしいから、今でも見守ってくれてるのかもしれないですねって説明されて。
その時は親のことバカにしてるのかって思ったけど、本当に居られたのかもしれないわね」
それは母親なりの慰めだったのかもしれないが、俺は涙をこらえ切れなかった。
怖い先生だったけど、好きだった。
子供みたいに泣きじゃくる俺の背を母親は黙って撫でてくれた。




あの日以来、不思議な程気持ちが安定してきた。
それにつられるようにして、仕事や私生活も次第に好転し始めている。
今でも先生はあの場所から、幻の桜の下から、俺を見守ってくれているのだろう。
だから俺も先生に言われたように、今日も背筋を伸ばして生きていく。
最終更新:2011年03月06日 09:58