遠くから流れてくる歌声に誘われ闇の中を進んだ先。揺らめく月明かりが窓から差し込む
部屋で、微かな囁きと共に少女が手を差し伸べてくる。その手を取ろうとして――いつも
そこで目が覚める。
そう、いつも。繰り返し何度も見る夢。
それでも、夢を見る度に、彼女に少しずつ近づいている。

子供と大人の丁度中間の儚い美しさ。
緩く波打つ長い髪は淡い色合い。肌も透けるほどに白く。少し古めかしいデザインだが、
そのレースの白いワンピースドレスは彼女に良く似合っていた。
あと少し。あと少しで彼女の元へたどり着く。

いつもいつも、気が付くと彼女の事を考えている。
夢を見始めたきっかけは何だったろう。
確か、趣味のスキューバダイビングであの海に潜り始めた頃から。



そこは美しい景観を望むリゾート地だ。
天災や争乱で、巨大な墓所と化した船の残骸が海底のそこかしこに眠るといい、それらも
含めて現在ではダイビングポイントとして観光地化されている。
そんな場所で、親しくなったショップの店員が冗談交じりに話してくれた。
遭難者が出る度に地元民はこっそりと囁く。沈没船に棲み着いた魔物に、誘い込まれ、食
い殺されたのだと。
そんなのはどこの海にでもあるただの伝説だと思っていた。

だが、地元民の囁き言を知らぬ筈の観光客の間から、幽霊の出る沈没船があるという噂が
立った。
そこは暗礁と複雑な海流からなる地元の漁師ですら容易に入り込めない難所で、噂はあれ
ども誰も見た事がない沈没船も眠るといわれていた。
恐らくは幾つかの噂が重なり合って出来たものだろう。
私も単なる好奇心で何度か近くに行っただけで、深入りする気は無かった。
けれど。

何の幸運、又は不幸のめぐり合わせだったのか。
波の砕ける音に紛れていたが、耳に残ったそれは確かに歌声だった。
音の主を求めて海中を彷徨ううちに、潮汐の偶然で、水槽の中のように静まり返る海。
ゆらゆらと揺らめく太陽は、底に届く頃には月のような儚げになる。
その光に照らし出され浮かび上がる、船の骸。

そのまま何かに誘われるように沈没船に入り込んでしまった。




実際誘われていたのかもしれない。繰り返し見るあの夢に。
重くぼんやりとした思考のまま、朽ちかけた船内をゆっくりと進む。
そしてたどり着いた見覚えのある暗い部屋の中。
窓辺には、彼女の姿。
何度も夢に見た姿。

ようやくその時が来たんだ。
夢のように部屋の中まで光は差し込んではいなかったが、暗闇に慣れた目は小さな窓がある
だけでも充分明るい。
ほんの僅かな距離を開けて向かい合う。
少し俯いているので表情ははっきりとは望めない。
そのか細い姿に向かって腕を伸ばして。
指先が、あと少しで、触れる。

『近寄らないで』

微かに動いた口元から紡ぎだされた言葉がはっきりと耳に届いた。思わず手が止まる。
今までぼんやりしていた意識が、急速に覚醒していく。
『お姫様だと期待した?残念でした』
冷静に観察すれば、それが異形なのはすぐに分かった。
長い髪は乱れ、頭部に絡みまとわりついている状態だ。細い体を覆うぼろぼろに朽ち果てた
布、そしてそこかしこの隙間から覗く、真白い骨。
ゆらゆらと水が揺れるのを感じた。潮の流れが変わっただというだけではない。背後から何
かが近づいて来る気配。
『あなたは死ぬの』
水流のせいだろうか。揺れる骸の頭部がゆらりと正面を、こちらを向いた。
夢に見た柔らかな笑顔などどこにも残ってはいなかった。



「キャハハハハハハッ!!」
「人間の雄って本当に単純よね!」
「今回の『疑似餌』で釣れたの何匹目かしら」
複数人の女のけたたましい笑い声が大音量で反響する。
振り返るのとほぼ同時にすさまじい激痛に襲われた。
我に返った私が見たのは、あざけるような、さげすむような、醜い笑顔の人魚の群れ。それ
らが嗤いながら次々と部屋へ泳ぎ入り、鮫のような歯をむき出して私の体のそこかしこにか
じりつこうとしている。
とっさにダイバーナイフを握り締め人魚に向かって振り回し、逃れようと必死に暴れた。
反撃を予想していなかったのか、たじろぐ人魚達。その隙に逃げ場を求めて視線を巡らせる。
争いによって巻き起こった激しい水流で堆積物と流れ出る血が水中を舞い、ベールのように
遮るその向こう側。
動くはずのない骸が、すうっと片手を挙げて小さな窓を指し示した。
悩む暇は無い。無我夢中でその小さな穴を潜り抜け、追いすがろうと続けて窓から身を乗り
出した人魚の頭に力一杯ナイフを突き立てる。
悲鳴と怒号が響く中、うねる海流に翻弄されながら必死になって海上を目指した。

体中のそこかしこの肉を食いちぎられながらも、私は辛うじて地上へ生還した。



ゆらゆらと揺らめく月光。微笑を浮かべて手を差し出す彼女。
いつもの夢だ。
だが、私をついと追い越し前に進み出てその手を取るのは、私ではない誰か。
――ああ、そうか。
ワルツを踊り始めた二人の姿を眺めながら、ようやく私は得心した。
『コレ』は『誰か』の夢なのだ。
海の底に沈んでいた『誰か』の夢を人魚が釣り餌として使い、私はその針にかかってしまっ
ただけに過ぎないのだ。
ダンスはまだ続いている。けれど、その舞台が急に遠くなる。
私の意識だけが、闇の中から浮かび上がっていく。


二度と海に潜れない身体になったせいか、それとも夢の正体に気づいたせいか。
それ以降、彼女の夢を見る事はなくなった。




何年経っても変わらない美しい海の中。
今は白い破片となったこの身は、緩やかな海流に乗りながらゆらゆらと沈む。
やがて暗礁の狭間に沈む沈没船が見えてきた。
人魚の群れは居ない。あの後近海での遭難者が目に見えて減った事から想像するに、逃した
獲物から己の存在が知られるのを嫌い餌場を他所へ移したのだろう。
緩やかな流れに乗って船の中を進み、見覚えのある部屋に静かに踏み入る。
彼女は、今もそこにいた。

夢の中で何度も見た姿。
窓辺の光の舞台の中、在りし日の美しい姿で。彼女の魂は一人きりでワルツを踊っていた。
長い髪とドレスのスカートが彼女の軌跡に合わせて軽やかに舞う。
『私と踊ってくださいませんか』
一通り踊った所で柔らかな笑顔を浮かべ、すっと宙に手を差し出す彼女。
それは私ではない誰かに対して夢見ていたのだろう、ささやかな望み。


悲しげに目を伏せた彼女だったが、視線に気づいたのかふとこちらを振り向いた。入り口で
佇んでいた私と目を合わせ、凍りつく。
『……え、な、何で』
「ああ、いやぁ、こないだ天寿をまっ」
『いつからそこにっていうか、ば、バカじゃないのなんでこんなトコに沈んでるのよあんな
恥ずかしい姿晒してまで助けてあげたのに!』
「いや、散骨し」
『その上何!? レディーの部屋にノックも無しで礼儀知らずもはなはだしいわ!』
「あn」
『最低最悪あの煩い人魚達が居なくなってやっと静かになったと思ったらこんな無作法な男
になれなれしく言い寄られるなんて』
「まだ言い寄ってません」
言いたいことは言わせておこう。たった一人きりで呼び起こされ、利用され、放り捨てられ
て。ずっと堪え続けた苦悩も不満も嘆きも全て吐き出してくれればいい。
時間など気にせず聞いてあげるから。

『……ところでその……あなた、ダンス踊れる?』
「え? えっと、フォークダンスなら」
『ほんとに最悪』
最終更新:2011年03月06日 10:22