しとしとと小雨降る中、紫陽花が彩る小径を早足で進む。
この先には四阿がある。そこで雨宿りを兼ねて一休みするのが習慣なのだが――
「……先客、か」
四阿の内に朧げな影が見えた。速度を緩め様子を窺う。
影は次第に輪郭を明確にし、やがて年若い娘の姿となった。今風の軽やかな装いも明るい
色の長髪もしっとりと濡れているようだがそれを気にするでもなく四阿の長椅子にぼんや
りと腰掛けている。
引き返すか迷ったが、雨脚が強くなってきたので仕方なく四阿に入った。気配に気付いた
娘がついとこちらへ顔を向ける。
「あ……」
若干気まずそうな表情を浮かべた娘。その顔を濡らしているのは雨だけではないようだ。
思わず溜息が漏れる。相手をせずに適当に一息入れようと思っていたのだが、流石に涙に
暮れる娘を無視出来るほどには図太くない。
「使え」
懐の手拭いを娘に放り投げた。
「あ、の」
「風邪引く前にとっとと帰れ」
戸惑っている声を背負いつつ、俺は再び雨の中に足を踏み出した。



相も変わらず雨が降る。
今日こそは庭園の奥の四阿で独りゆっくり、と思っていたのだが。
「はぁぁ……」
無遠慮に溜息を吐くと、娘は慌てて振り返った。
今回は清楚な制服姿。長椅子に腰掛ける娘の脇には透明なビニール傘も並んでいる。目的
あってわざわざ来たのか。
「何を好き好んでこんな辺鄙な所に来ているのやら」
庇をくぐり、単衣の着流しを濡らす雫を手で払いつつぼやく。
娘は何か言いたげな顔をしたものの黙って脇に置いていた鞄を探り、見覚えのある手拭い
と白いタオルとを取り出してこちらに差し出した。
「これ、返す。ありがと。お礼にタオル使っていいよ」
「そりゃどうも」
素直に受け取り、手拭いは懐に仕舞い、タオルで軽く水気を拭き取り。
さて、手の中のタオルをどうしようかと思い至る。濡れたものをそのまま返すのは流石に
悪いか。
こちらをじっと眺めていた娘もそれに気が付いたのだろう。
「いいよ、あげる。コンビニで売ってる物だし」
すまし顔でそう言った。
「そうかい。なら遠慮なく」
頭をごしごしと拭う。帰りにはどうせまた濡れるのだが。

「傘差さないの?」
「面倒だ」
「ふーん。変なの」
訝るような表情の娘を流し、俺は庭園に視線を向けた。
雨に煙るそこに、俺達以外の人影は無い。
「ここには他に何かあるの?」
「向こうに寺。ここは山腹にある寺院の敷地内だ」
「そうなんだ」
「ちっとばかり離れているし、最近は庭園目的の客用に直通の新しい道を拓いたからな」
「適当に歩いててここに着いただけだから知らなかった。じゃあもしかしてここ、晴れて
たら結構キレイなんだ」
「雨には雨の風情がある」
「わかんない」
「洟垂れのお子様には解らんだろうな」
言いつつちらりと見やると娘はむっとした顔でこちらを見上げていた。
「さて、風邪引く前にとっとと帰れよ」
「それはこっちのセリフですー!」
ひらひらと手だけで返してから、俺は雨の中に戻った。



「雨ばっかり続いて嫌になっちゃう」
今日も娘が出迎える。
「また居るのか」
「あたしの勝手でしょ」
思わず溜息を吐くと、娘はぷいっと横を向いた。
手拭いで適当に雫を拭い、娘の斜向の長椅子に半跏で腰掛ける。
「傘ぐらい差せばいいのに」
「勝手だろ」
「そりゃそうだけど、その……ちゃんと拭けば?」
言いよどむ声にちらりと視線を向ける。またタオルが入っているのだろう、鞄に手を伸ば
そうか迷っているようだ。
「帰りにまた濡れる。面倒だ」
「何よ、めんどくさがりのオジイチャン。風邪引いても知らないんだから!」
「誰が爺さんだ、誰が」
娘は悪態を吐きながらやり場のなくなったらしい手を握り締め膝の上に揃えて再びそっぽ
を向いた。
そのまま二人とも暫く黙っていた。今日も庭園に人気は無い。

「あーあ、雨、止まないかな。あたし結構晴れ女なんだけどな」
「そうかい、俺は雨男だ」
「イジワルジイサン」
「五月蝿い」
素が出てきたな。腹の中で苦笑しつつ立ち上がる。途端娘は困惑した様子で見上げてきた。
「もう行くの? ……あ、その、そうだ、傘! あたし折り畳みも持ってるんだ。貸してあ
げようか?」
「いい」
「あ、の、その」
おろおろとしている娘。どうも俺を怒らせたと勘違いしているらしい。
「別に怒っちゃいない。いつもちょっとしかいないだろ?」
「そ……そう、だったっけ」
「傘もな。前に貸してくれた人がいて、その人にもう一度会えるかもしれないって、ちょっ
とした願掛けみたいなもんで持たないだけだ。気にするな」
「そうなんだ……」
安堵の表情を浮かべた娘。忙しないその様子につい口元が緩む。
「じゃあな、か――」
「風邪引く前に帰れよ、でしょ。わかってますよーだ」
言いかけた言葉を途中で奪い、したり顔で返す娘に軽く手を振って、俺は四阿を後にした。



宿坊の中庭にも紫陽花が植わっている。梅雨時を迎え、厚く遮る雲の向こうから切り取っ
てきたかのように鮮やかに色付いているそれらをぼんやりと眺めていた。
「様子はどうだい?」
勤めを終えて本堂から戻ってきた住職が声を掛けてきた。
「何とも言えんな」
「まだかかりそうかね?」
「さあな。ま、焦ってもどうにもならんからな」
「そうか、まあそういうものなんだろうな」
ぽつぽつと疎らに、けれど止むことなく降り続ける雨。
「――さて、行くか」
「傘くらい持って行けばよかろうに」
「……ん、まあ、そうだ、な」
適当に濁しつつ、履物を引っ掛けて、歩き出してからふと気が付いた。
そう言えば、傘を持たない理由を誰かに告げたのはあの娘が初めてだったな。
俺は今日も娘が待つであろう雨の庭園に向かった。



「入る?」
四阿の少し手前の所で娘に出会った。かざしていたビニール傘を差し出してくる。
「あ、その、べ、別に、待ってたわけじゃないんだからね? 退屈だから、ちょっと庭園を
歩いてただけなの。それだけ」
「断る理由は無いな。お言葉に甘えて入れさせてもらおう」
「あ、っ……! あ、う、うん」
自分で申し出ておきながら何故か戸惑う娘。俺の方が背が高いからと傘の柄を預かり二人
で収まったのだが、落ち着かない様子で俺と微妙に距離を取り黙っていた。
「で、庭園を歩いてみたって?」
四阿に到着するやそそくさといつもの場所に座る娘を横目に、傘を畳みながら問いかける。
娘は一瞬きょとんとし、それから慌てたように頷いた。
「あ、うん、そう、そうなの。あなたが雨でもキレイだって言うから。お寺の場所はよく
わかんなかったけど」
「結構広いからな」
「でもアジサイばっかり」
「……向こうにゃ菖蒲園、そっちにゃ睡蓮池、あっちは深山渓流、紫陽花だけなのはこの
辺りだけだが」
「ちょっとだけって言ったでしょ!?」
焦る姿に思わず噴出す。益々頬を膨らませる娘。
「何よバカ! イジワルジイサン!」
真っ赤になってそっぽを向いてしまった。
「笑って悪かった。お詫びに庭園を案内してやるぞ」
「いいもん! 自分一人で回るもん!!」
すっかりへそを曲げてしまっているようだ。これ以上構っても依怙地になるだけだろう。
やれやれと溜息を吐くと、雫を振るった傘を娘の傍に立てかける。
「じゃあ俺は行くが、迷子にならないように早く帰れよ」
「……」
返事は無いが、俺は構わずに背を向けた。



「何でいつも着物なの?」
「趣味」
「どこに住んでるの?」
「ここの寺の食客だ」
「……しょ……?」
「居候」
「ああ」
ここに来る途中で激しく降り出した雨に叩かれ、いつも以上に濡れてしまった。仕方なく
長居しているのだが。
「今何歳? まだ三十代いってないよね?」
「秘密」
「ケータイとか持ってる?」
「いんや」
「時代遅れだって言われない?」
「無くても困らないからな、問題無い」
俺が座るや隣に席を移してきた娘はまだ不機嫌で、こちらにまともに顔を向けない癖に
やけに人の素性の詮索ばかりしてくる。
「いつも何食べてるの?」
「精進……あー、肉や魚を使わない寺の飯」
「そっか、イソーローだもんね。こっそりお菓子とか食べたりしないの?」
「不満を言える立場じゃない、そもそも金無いし」
「ニートなんだ」
「五月蝿い」
「どうしてお寺に住んでるの? 家族、いないの?」
「天涯孤独ってやつだな」
「そう、なんだ……」

それきり言葉が切れたので質問が尽きたのかとちらりと娘を見るが、違うようだ。何か聞
きたいが切り出せない、そんな雰囲気でもぞもぞしている。
そうしているうちに雨が小降りになってきた。
「さて、そろそろ――」
「あの!」
立ち上がろうとした俺に、本日初めて娘が真っ直ぐ顔を向けた。
「何だ?」
「この前言ってた、もう一回会いたい人って、女の人?」
「……ああ」
答えを聞いた娘は、明らさまな動揺を見せた。解り易いその様子に苦笑を覚える。
「……まあ、待っても無駄だって解ってるんだけどな」
「え……?」
「彼女はここには来ない。来られない。二度と……会えない」
胸に湧きあがる鈍い痛み。忘れたつもりでいたが些細な事でぶり返す。
「お前も、大事な人が心配してくれるうちに、早く帰れ」
若干素っ気無いなと自分で思いつつ立ち上がる。娘は両手を握り締め俯いた。
「……そ…な人……な……」
呟く言葉は聞こえなかった振りをして、足早にその場を立ち去った。

一旦宿坊まで戻ったものの、様子が気になり傘片手に戻ってみる。
案の定、ビニール傘も荷物も放り出したまま、持ち主の姿は何処にも見当たらない。
俺は溜息を吐くと、園の奥を見やった。



俺にはさして違いがあるようには見えないが、この園で迷う者が決まって通る道がある。
正道から外れた暗く狭い脇道。そこをどれだけ進んだか。
雨の幕の中に朧げな影が見えた。立ち止まり確かめる。木陰に据えられた岩に、見覚えの
ある後姿が腰掛けていた。
「風邪引くぞ」
声を掛けるとびくりと肩を震わせ、そろそろと気まずげに振り向いた娘。こちらを目にす
るや呆けた顔で呟いた。
「うわ、ハデ」
俺が差している紅色の蛇の目傘。確かにビニール傘に比べりゃ目立つが。
「普通だろ」
「……えー? ……でも着物姿に似合っててカッコイイかも」
「お前に言われると褒められている気がしない」
「何でよ!?」
頬を膨らませる娘に、手拭いを広げて渡す。
傘も差さずに園を彷徨っていた為ずぶ濡れになっている娘は、大人しく受け取った。
「全く、心配させるな」
「……頼んでないもん」
「そうかい。ほら、戻るぞ」
「……うん」
素直に従う娘。
細い小径の両側は雨に濡れた葉がしなだれている。娘がこれ以上濡れないように、傘の
中心になるように、肩を抱き寄せるようにして歩く。
その長い長い道のりの間、娘はぽつりぽつりと問わず語りに己の事を話し始めた。
家族の不和、両親の離婚。学友との諍い、孤立。失恋。
そして、雨の夜、絶望のままに、高いマンションの踊り場から身を投げ出し――


「――気が付いたらあそこにいたの」
遠くに見えてきた四阿の屋根を示す。
「なんだか頭がぼんやりしてて、夢、見てるのか現実なのか判らなくなっちゃって」
紫陽花の花が薄暗がりに浮かび上がる。
「ここであなたと話してる時ははっきり考えられるけど、一人になると、急にぼんやりし
て何もわからなくなっちゃうの。あなたに言われたから帰らなきゃとか、学校に行かなきゃ
とか、ぼんやり考えて、歩き出して。でも気が付くとここであなたを待ってるの」
足を止める娘。俺は黙って続きを待つ。
「あなたが、好きだからだって、気が付いた」
なんとなく予想していた事だが、改めて言われると思わず苦笑してしまう。
「何よ、本気なのに!!」
「悪い、お前を笑ったんじゃない。真逆、俺が枷になるとは思っていなかったんでな」
「? どういうこと?」
「こっちの事情だ」
説明する気は無い。己の現状を把握した娘が再びこの園で迷う事はないだろうから。
「何よ、もう」
「俺はイジワルジイサンだからな」
「! ……バカ」
泣きながら、笑いながら、抱きついてきた娘。
「あなたと別れたくないよ。生きていたいよ……」
縋りつき、すすり泣く娘を、黙って両手で抱き締めた。
ふと差し込んだ強い光に顔を上げる。長雨を落とし続ける雲間に澄んだ青が望めた。



四阿で一息ついた後、各々傘を持ち、雨の中を歩く。
「自分の傘、持ってたんだね」
「ああ」
「あたしのこと、捜してくれたんだ」
「ああ」
「……何で?」
「最初から迷子だってのは解っていたからな。今更放り出すわけにもいかないし」
「……それだけ?」
「他に何がある?」
「……素直じゃないって言われない?」
「言われない」
「ふーん?」
「いいから前向いて歩け。転んでも知らんぞ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて人の顔を覗き込もうとする娘を急き立てるように庭園を進み、
寺院の横を抜け、そして山門の下に立った。

門の先には鬱蒼とした森が広がっている。そこを貫くように下に伸びているのは彼女の為
だけに開かれた、彼女しか通れぬ道。長い長い石段は、途中で木立に遮られ行く先を窺い
知る事は出来ない。
「この先がお前の帰り道だ」
「う、長……。ねえ、途中まで送ってってよ」
「無理」
「イジワル」
頬を膨らませる娘。苦笑しつつ俺はまだ雨で濡れているその頭を優しく撫でてやった。
「手拭いは貸してやる。風邪引くなよ」
「はーい」
ととっと軽やかに駆け出した、と思ったら娘はすぐ立ち止まり。
「生きてるときに、会いたかったな」
振り向かぬまま大きな声でそれだけ言い、前より若干足早に、石段を駆け下りていった。
山門から離れるにつれ、石段と共にぼやけ、森に滲み溶け込んでいくその姿が完全に見え
なくなるまで、見えなくなっても見送っていた俺の頬に、雨粒が落ちた。
「ああ、そういやあの娘、本当に晴れ女だったか」
再び灰色に塗り込められた天を見上げ、独り言ち、俺は踵を返した。



ここの寺院や庭園と重なるようにして存在する、此岸と彼岸の隙間。
永遠に降り止まぬ雨の園。
閉ざされたそこに偶に迷い込むものがある。
彼岸にせよ此岸にせよ、行き先を見つければ、決められれば、抜けられる。
そうでなければ永遠に出られず彷徨う。若しくは、何処にも行けなくなる。

例えば、自分が死んだと最後まで勘違いしていた為、生を渇望し掴み取り、此岸へ戻って
行ったあの娘。
例えば、疾の昔に肉体を失っているにも関わらず未だ行く先を見出せず、何百年と彷徨い
続けている俺。


10
「お客だよ」
その日、四阿から戻った俺に、庭先で待ち構えていた住職が声を掛けてきた。
他の迷う者を導く事でいずれは成仏の足がかりになる、とか言って、自分の為すべき役を
俺に押し付けている徒の怠け者だが、此岸側の寺院に在る者の中で唯一俺を認識し、雨の
園の秘密も知っているこの男が『客』と呼ぶのは園で迷う者の事だ。
「また誰か迷っているのか?」
だが雨の園にそんな気配は無かった。首を捻る俺に、にこやか、とは言い難い、やや俗な
笑みを浮かべた住職が耳打ちする。
「いやいや、現し世からの客よ」
隅に置けんなー、と笑う住職。
「……会わない。というか、会えるとは思えない」
すぐに思い浮かべた顔はある。
だが、狭間に囚われた外れ者の俺は、かなりの霊能者か余程波長が合うかしない限り此岸
の者とは互いを認識し合えない。
「まあ試しに玄関に行ってみるだけでも」
「無駄足になるに決まっている。行っても仕方ない」
「……そうか? ……ふーん、仕方ない、か。かわいそうにのー。退院したばかりのまだ
痛々しい身体を押して折角会いに来てくれてるのにのー」
……坊主の癖に腹が立つ物言いをする。
わざとらしくぶつくさ言いながら玄関に向かう住職。暫くして響いてきたのは――
「――イジワルジイサンのバカ!! てぬぐい返してあげないんだから!!」
「……だ、れが、爺さんだ、洟垂れ小娘の癖に!!」
怒鳴り返し、そして俺は玄関へ駆け出した。
最終更新:2011年07月01日 19:20