ぼくには麻耶という娘がいる。
 妻の由紀は、麻耶が3つのときに死んだ。 交通事故だった。
 ぼくの両親は既に亡く、妻の家族もいない。
 会社の理解もあり男やもめで育てていた。

 朝、幼稚園へ娘を送り、出社。
 夕方5時に会社を抜け出し、幼稚園へ迎えに行き、帰宅。
 食事を作って一緒に食べ、8時には寝かせて帰社。
 それから25時まで働いた後、帰宅。
 体力的、精神的には相当苦しかったが、麻耶と夕食を取る事ただそれだけを励みに今まで生きてこれた。

 しかし最近、麻耶の様子がおかしいことに気がついた。
 なにも無い空中を見上げて笑顔を浮かべたり、話しかけたりしている声が聞こえる。
 そこには誰もいないというのに。

 母親のいない寂しさによるストレスなのか…?
 麻耶は想像の中で由紀と会っているのかと思うと涙が出る。
 会社が休みの日曜日、遊園地へ行って麻耶と遊んだ。
 ぼくにとっても至福の時間だった。

 コーヒーカップではしゃいでいる麻耶が唐突に言った。
「おねえちゃんもくればよかったのにねー」
「お姉ちゃんって誰だい?パパに教えてくれないかな?」
「いつもうちにいるおねえちゃんだよー」
「え、パパは会ったことがないなぁ」
「おねえちゃんね、まやをママに会わせてくれるんだって!」

 ――麻耶の話し相手は妻ではない?

 娘が寝静まった深夜、半信半疑で暗闇に話しかけた。

「居るのか?」
「………」
「お前は誰だ… 娘をどうするつもりだ?」
「………」
 数秒?数分? 長い沈黙の後、苦笑しかけたぼくに
 妻の声ではない若い女の返答が確かにあった。

「…迎えに来たのよ」
 酷く悪寒がした。姿を見せず声だけが聞こえてくる。
 コイツは何だ?

「お前は由紀ではないな。迎えに来たとはどういうことだ?」
「あの娘だってお母さんに会いたいはず」
「…くっ」
「貴方、父親としてこれで良いと思ってるの?」
 誰にも言って欲しくなかった残酷な一言を言われた怒りと、
 妻を失った哀しみに打ちのめされたぼくは、搾り出すように叫んだ。

「…お前に何がわかる!」
 女の声は、ひどく冷たい声でこう答えた。

「だってマヤ、私といてもどこかさびしそうだもの」

 恐怖だった。今のぼくが麻耶を失ったら、もうとても生きてはいられない。
 翌朝すぐ、会社に急の休みの電話をいれ、なりふり構わず伝手を頼り緊急で除霊に来てもらう手配をした。

「かなり未練の強い霊でした。 地縛霊というわけでもないようなのですが」
 除霊の済んだ後、人懐こい笑みを浮かべて霊媒師は言った。
「安心してください、もう大丈夫です」

 幼稚園へ迎えに行き、帰宅してすぐ麻耶は不安そうにぼくを見上げた。
「ねーパパー?おねえちゃんは?」
「お姉ちゃんはもういなくなっちゃったよ」
「おねえちゃんは? どこいったのー? ねぇ!」
「麻耶がいい子にしてればまた遊びに来てくれるってさ」
 麻耶をなんとか寝かしつけ、ぼくは娘にウソをついた後味の悪さと
 全てが解決した安堵感に一杯だった。


「申し訳ありませんお父様! 昼前から麻耶ちゃんの姿が見えないのです…」

 夕方会社にかかってきた電話で、ぼくの心臓は凍りついた。
 保母の泣く声をバックに、丁寧ながらどこか卑屈な園長からの電話だった。
「早めにお知らせしようとしたのです、ですが」
 言い訳めいたダミ声を聞いている暇など無い。電話を叩きつけると幼稚園へ走った。
 まず自宅を探す、いない!

「クソッ…あの化け物か…ッ!!」
 あの時ぼくは確かに発狂していた。妻の事故の知らせを受けたとき以上に必死だった。
 街中を叫び歩き、警察で泣き叫び、絶望の淵で自宅に帰りついた。

「パパー、おねえちゃんいたよー。 おおけがしてるよー」
 扉を開けた麻耶の肩越しに、醜く焼け爛れた化け物が、廊下の向こうにいるのが見えた。

 ぼくは麻耶をひっつかむと、車に乗り込み急発進させた。
 逃げなければ! 逃げなければ! あの化け物から逃げなければ!

「ばかぁーっ! あぶなぁーいっ!」
 恐慌にかられていたぼくが我に返ったとき、アクセルを踏みっぱなしだった車は
 ガードレールを突き破って空中に浮いていた。

 崖下で逆さまに転がった車の中で、ぼくと麻耶は奇跡的に無傷だった。

「ばか! あんたねぇ! マヤ乗せてなんて運転してるのよ!」
 化け物に怒られるぼく。もうわけがわからない。

 ひとしきりマシンガンの様に説教したあと、一息ついて化け物は言った。 
「あ…私もう限界みたい…」
「あーあ、せっかくお節介焼きに来たのになー。 由紀姉さんのとこに行くね」
「じゃあさよなら、義兄さん、マヤ」
 一瞬、妻によく似た笑顔を残し、化け物はすぅーっと消えていった。

 ぼくは勘違いをしていたらしい。とても酷いものを。

 ぼくは職を失った。
 会社に急に休みを入れた次の日に無断早退、
 気を狂わせて行方不明のはずの娘と無理心中しようとした父親、のような男に世間は甘くない。
 散々検査だの精神鑑定だのを受けたあと、娘と暮らすことはどうにか許された。 

「麻耶ー、ご飯できたぞー。 早紀もいったん中断しろよー」

 化け物――いや妻の妹の早紀はケロッとした顔で帰ってきた。
 私は成仏出来ない体質なのよ、だとか。
 学生のうちに病死した後、由紀に取り憑いてずっと見ていたらしい。

「私を通して由紀姉さんと会話できないかなと思ったのよ」
「由紀姉さんは幽霊になれないみたいだしね」

「全く、どうして由紀姉さんはこんな不器用な男に惚れたんだか」
「あんな無理な生活してて身体壊したら、マヤをどうするの?」
「あたしが稼いであげるから義兄さんはマヤと遊んであげること!」

 麻耶は家に常にぼくがいてうれしそうだ。
 チャーハンをもぐもぐさせながら、幼稚園に気になる男の子が出来たと報告してくれた。
 な、なんだってー!?

 今、彼女――早紀はパソコンの前。
「生扉豚社長タイーホキター! 生扉ショックで業界株ガタ落ちウマー♪」
「ちょっと! 取引停止ってどーゆーこと!? 東証なにやってんのーッ!」
 良く分からないけどぷりぷり怒りながら食卓へもどってきた。

「ねぇ義兄さん、明日は三人でディズニーランド行こっか♪」
最終更新:2007年03月19日 05:51