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毒蛇は頭を潰せ」(2023/06/29 (木) 00:42:58) の最新版変更点

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. 月のない砂漠の夜、その男は最期の時を迎えようとしていた。眼前には黒い血溜まり。それは彼自身が作り出した「毒蛇の牙」なる毒のせいだ。全身に受けた矢傷から毒は侵食し、血の赤さえ黒へと変えた。恐らく、自分は今、どうしようもなく醜い姿をしているのだろう。月のないのが幸いであった。血溜まりに自分の顔が映ることはなかった。彼の近くの砂地に火矢が一本突き刺さる。ナルディア大汗の軍勢が追ってきたのだ。 ここに到る経緯を追ってみよう。アルナスの毒蛇・スネアは、アルナス砂漠とその近辺を制圧し、ナルディアの勢力を滅ぼした。その後も騙まし討ちや裏切り、様々な策略を駆使して勢力を拡大する。「機を誤らぬこと」常々スネアはそう口にしていた。即ち、弱い敵を選び、あるいは弱い敵を作ってからそれを攻める。兵法の常道ではあれど、それをここまで体現してみせたのは彼を於いて他になかったと言えるかもしれない。ラザムが魔王軍残党や死霊軍と戦うとき、魔王軍残党同士が内紛で衝突するとき、彼は敵国の弱点を即座に見切り、そこを攻撃した。その動きは、毒蛇が獲物の脈所を見つけ、恐るべき速度で襲い掛かり牙を突き立てる様そのものであった。 だが、いくら彼の頭脳や戦略眼が優れていても限界はある。版図拡大に伴い、アルナス・ウルスの軍勢は次第に大きくなっていった。大きくなりすぎたのだ。領内の各地で問題が生じ、それを一つ鎮火させてもまた別のところで問題が生じた。そのうち、把握しきらない、また対応しきれないところで綻びが生じる。 ゲルザク峡谷にて。この地はムナード党・ラザムの攻撃を防ぐ、重要な防衛ラインを築かれた要衝であった。 この地の北、ミッドウェイ西を保有していたグリーン・ウルスはその地を捨てて逃げた。現地の指揮官は「岩の部族」の長、ルールーニ。防衛ライン構築の責任者は、「ドワーフの投石機」ベガレスである。はじめ、ルールーニとベガレスは反目していた。短期間のうちに、ベガレスは広大な土地に塹壕を掘り、土塁を積み上げる。断崖の壁面にはちょっとした袋のような形の拠点を設けることで、監視塔の役割をする。もちろん、断崖の上にも監視塔や拠点を置く。この地の指揮官の本陣にはいかにもドワーフらしいこの上なく堅牢で仰々しい城砦を用意した。なにかと文句をつけたがる気質のルールーニは、「こんなドワーフ式な築城の仕方でよいのか」などと言った。だが、いざ戦争になると彼らは協力しあい、何度かの敵性勢力からの攻撃を跳ね返して見せた。ルールーニとベガレスは互いの働きを認めざるを得ないこととなる。 「砂岩の旦那。悪魔どもが北から攻めてくるって話だぜ」 砂岩の旦那とはルールーニのことである。ベガレスなりの軍で上官に当たるルールーニへの呼び方であった。岩の旦那とは呼はない。それだと、ドワーフにとってはルールーニがガルガンタ近辺の山々をも統べるかのように聞こえるからだ。だが、旦那という呼び方には敬いの意味が込められていた。 「またか。性懲りもなく。いつものように適当に遊んでやれ」 攻めてきたのはムナード党である。だが、その時のムナード党の攻勢はこれまでの規模ではなかった。北の空から現れた異形の群れは、断崖を丘陵を飛び越え、監視塔を飲み込む。アルナス・ウルスは悪魔の本当の恐ろしさを垣間見た。それまで敵を防いでいた塹壕も土塁も一瞬のうちに吹き飛ばされる。ベガレス隊が岩石投げによって何体かの悪魔を撃墜するも、敵の勢いは止まらない。ルールーニが手勢を率いて敵陣の側背に回り、魔術師たちを射殺すも、すぐさま闇魔法の応射によって対応される。 敵軍の中に一際巨大な悪魔が二体いた。ひとつはムーア。彼の悪魔は、上がり続ける魔軍の士気に呼応するかのようにみるみる巨大化していく。それは錯覚ではない、実際に巨大化しているのだ。 「虫ケラども、じわじわとなぶり殺しにしてやる!」 巨大化したムーアの腕は陣地ごとドワーフとアルナス騎兵たちを掬い上げ、バラバラと地に落とす。それだけで死ぬものもいた。運良く、あるいは運悪く生き残った者達は指先で弾かれたり、摘んでゆっくりと時間をかけて握り潰されたりした。まるで虫ケラを殺すがごとく。圧倒的な力の差を見せつけ、容赦なく、そして時たま長く苦しむように、惨たらしく殺す。 もう一体の巨大な悪魔はゼオンであった。ゼオンは地に降り立ち、大きく息を吸うと地響きを鳴らしながら突進する。猛牛、いや、この世のではない威力。巻き上がる粉塵。ひび割れ剥れ、砕け散る岸壁。その中に赤いものが混じる。巻き込まれた数十名のアルナス・ウルスの兵達は苦しむ間もなく、粉々になった。彼はゆっくりと苦しめて殺すようなことはしない。だからと言って情けもない。ただただ、大量の命を奪い続ける。なにかを渇望するかのように。豪腕を振るうと武具甲冑が砕け、骨肉が飛び散る。命乞いをする者、逃げる者にも容赦はしない。 「脆いんだよ、テメェら……」 強者がいない。彼にはそのことがこの上なく不満であった。近くの死に掛けのアルナス兵を繰り返し踏みつけている名もなき悪魔がいた。ゼオンはその悪魔の首根っこを引っ掴むと、岩肌に投げつけた。悪魔の五体はバラバラになる。岩が崩れ落ち、その威力を物語る。少しだけ安堵した死に掛けのアルナス兵であったが、自分を救った者の顔を見るとその表情は蒼白に変わる。ゼオンはその兵につばを吐きかけ、興味なさそうに飛び去る。自分の渇きを癒す強者はいないのか、あのノーアのような。彼は舌打ちし、北の空へと飛び去った。 幸か不幸か、ベガレスとルールーニはこの二体の悪魔と直接対決せずに済んだ。辛うじて持ちこたえていたゲルザク峡谷の本陣に生き残った将兵は集結していた。 「なんということだ。これが悪魔の力か」 ルールーニは自らの見識の狭さを呪った。魔王軍は分裂し、内紛状態にあり、それの隙を突けば勝てると思っていた。だが、アルナス・ウルスと悪魔たちとの力の差は歴然であった。 「あんな化け物と殴りあうなんざごめんだな。そういうのはジオムにでもやらせりゃあいい。じゃあ、旦那、俺らはこのへんで引き揚げるぜ」 ドワーフが山の戦いで負ける。それは彼らにとって屈辱以外のものでしかない。しかし、ベガレスはここに到るまで何度も負けを味わっている。その中で負け続けても生き残ることの方が重要だと学んだ。一瞬、「逃げずに戦え」と言いかけるルールーニであったが、状況を冷静になって見ればそんなことは言えない。ルールーニは大敗によって混乱した自軍の将兵を巧みに収拾し、ゲルザク峡谷の陣の放棄を通達した。自らが築き上げた城砦の礎石をベガレスは黄金の槌で破壊した。 所変わって、ここはオステアの港町。城壁は傷み、崩れ、民は長引く戦乱で疲弊しきっていた。ラザムと同盟したとはいえ、東の死霊は強大であり、西からはアルナスの蛮兵が虎視眈々を侵掠の機会を狙っている。さらには、ルートガルト、イオナ及びその他諸々の地方からの難民が流れ込み、民は互いの生活を圧迫しあっていた。この弱りきったオステアは毒蛇の格好の餌食であった。 「ラファエル卿、そしてピコック卿は倒れた。第三執政アルジュナにこの国を率いていく器量はなく、我らオステアの命は風前の灯である。あろうことか、アルジュナの小娘は我らの命をラザムに売り渡し、自分のみが助かろうとしている。これを許してよいものか」 名もなき貴族風の男が街頭で演説をしている。アジテーター。彼がどこからの回し者であるのかは想像に難くない。彼の論には甚だ乱暴なところが目立つものの、日々の衣食にも欠く民に多少なりとも不安を抱かせる。ひとつひとつの策略では決定打にはならない。だが、それは、岩に水が染み入るかのように、徐々にオステアの地盤を脅かしていった。 オステアの首脳部が本格的にラザムに降伏するという情報がアルナス・ウルスへと舞い込んできた。頃合いか。ブレア城にて刃を研いでいた刺客たちは音なく宵闇を駆ける。東へ。ブレア東を一気に抜け、オステアの国境を飛び越える。綻びの生じた城に忍び込むのは影たちには容易いことであった。ちょうどその頃、本城の会議室にはクレア、エルティア、キュラサイトらが集まっていた。だが、最重要ターゲットのアルジュナの姿がない。刺客・テオード、ヒオット、ガウエンは会議室の屋根裏に張り付く。 ”様子がおかしい” ヒオットがアサシンのみにわかる合図で異常を告げる。テオードにはどう様子がおかしいのかが理解できなかった。ガウエンは黙っている。 (ヒオットのジジイ、俺を出し抜いて手柄を独り占めにしようとしてやがるな。どの道、この状況で仕事に失敗することはないだろう) テオードはそう心の中でつぶやいた。そして、テオードはターゲットの集まる会議室に自前の爆弾を投げ込んむ。フッ。爆弾の導火線の火が消える。キュラサイトの白い剣が飛来する爆弾の導火線のみを斬ってみせたのだ。そして、屋根裏に向けて、大量の氷の槍が撃ち込まれる。その威力は屋根ごと刺客たちを吹き飛ばすほどであった。テオードは手傷を負う。狙いが当てずっぽうであったのと、彼の持ち前の強運が幸いした。周りを見回すと、ヒオットとガウエンの姿はない。奴等のことだ、既に離脱しているのだろう。テオードも這う這うの態で逃げ帰る。 アルジュナらは暗殺を見越していた。それどころか、業とラザムへの降伏という偽情報を流して刺客たちを呼び込んだ。ヒオットをはじめとする”影”たちの任務は暗殺のみではない。彼らは敵の工作員や密偵を見つけ出し、狩る。早く且つ秘密裏に情報を運ぶことも彼らの任務だ。情報戦・謀略戦に彼ら隠密集団は無くてなくてはならない存在だ。ヒオットらがここにおびき出され、ブレア城を留守にしている間、ブレア城駐屯軍の情報伝達能力と策略への対応能力は一時的に低下していた。 ウェントルはわずかな手勢を率いて西へ進んでいた。ブレア城を通り越し、さらに西へ。ターゲットはブレア西とアルナスの砂漠とをつなぐ橋頭堡となる敵拠点。平原と砂漠とを繋ぐ、敵のアキレス腱である。ウェントル隊は見張り台の兵を狙撃する。気付かれることなく奥へ、さらに奥へと入り込む。そして、拠点の中枢部に達した後は一瞬であった。 「お、おまえは、オステアの……。なぜ、ここに」 「斬り刻め。ソードラッシュ!」 乱舞する剣。建物は木片に、人馬は屍に。全滅には至らない。だが、大きな被害を与える。仕上げに厩に火を放ってから逃げる。拠点を制圧することも潰すことも目的ではない。ただ、連絡のための機能を低下させつつ後方を攪乱すること、それが彼女の隊の任務であった。同様の手を他の拠点にも及ばせるため、ウェントルたちはその場をあとにした。 マジックナイトの部隊もまた動いていた。ターゲットはブレア東のアルナス・ウルスの拠点。ウェントル隊ほどの速度はないが、彼女の攻撃は的確かつ有効打であった。 無論、留守を任された隠密集団たちもこの動きを看過したりはしない。遅ればせながら攪乱工作、急襲を行う部隊の動向をかぎつけ、それを阻止しに向かう。闇に生きるものにとって数少ない功名を成す機会。だがそれをものにできたものその時のアルナス・ウルス側にはいなかった。闇の中を飛び交う黒いなにかが彼らの額に突き刺さる。手裏剣と呼ばれる暗器であった。金色の髪をしたその小柄な影は、仕事を終えたことを確認するとその場から去った。 ブレア城に報せを持ってくる隠密は、いない。ブレア城の軍は東西、そして前後の拠点を攪乱され、隠密戦、情報戦で遅れを取った。外の状況側からない。城壁の外からも只ならぬ殺気が感じられる。空気が重苦しい。人を守るはずの城は今や棺おけのように息苦しいものとなっていた。だからと言って迂闊に動くこともできない。 「どういうことだ、我が軍の配置が完全に読まれているようではないか。あらゆる手において後手に回っている。これは、もはや裏切り者がいたとしか」 軍議の場でドルナードはこう漏らす。だが、彼の指摘も最もであった。オステア側の特務隊の襲撃は早くかつ正確すぎた。敵方にこちらの情報が漏れているとしか考えられなかった。だが、ここで”裏切り者”という言葉は禁句であった。土侯たちは押し黙り、重い空気はさらに沈む。同部族の集団とはいえ、利害の一致でのみ成り立った寄り合い所帯がアルナス・ウルスだ。いつ誰が裏切ってもおかしくはない。 (策を弄しすぎたか) オステアを策略によって追い詰めるはずが、こちらが追い詰められていた。程なくして、敵襲の報せが飛び込んでくる。強行軍。大軍。オステアの軍勢であった。 「奴らは正気か? あれほどの大軍を動員してはオステアの守りはどうするつもりだ」 エフォードは驚きの声を上げる。これほどの大軍をブレア城付近まで近づけてしまうとは。一連の見えざる攻防によってアルナス・ウルスの情報伝達能力が著しく低下し、眼をふさがれたも同然であった。オステアが本拠地をほとんど留守にできたのは、ラザムがオステア近辺の死霊たちを一時的にとはいえ一掃してくれたからである。この進軍は半ば賭けであった。だが、アルジュナは明日を掴み取るために、踏み出した。それに、アルナス・ウルスは「弱い敵」である。弱い敵から潰すのは常道である。アルナス・ウルスはこれまで弱い敵を選び、あるいは弱い敵を作ってからそれを攻めてきたが、彼らは今まさに「弱い敵」の立場に立たされていた。ブレア城の軍議の場にオステアから書状が届いた。 ”アルナスの皆さん。今すぐ中原から出て行ってください。降伏とかはいりません。ただ出て行ってください。ちなみに時間の猶予はありません。ボクたちは忙しいので。今から攻撃を仕掛けます。逃げてください” 「ふざけた真似を。全軍、配置につけ、中原の軟弱者どもに思い知らせてくれる!」 ドルナードは容易く挑発にのった。城塞の利を生かさずに、アルナス騎兵たちは打って出る。出てきたところを待ち受けていたのは、魔法の雨であった。ピコックが育て上げ、死して尚守り抜いた魔術師団は強い。彼女たちは最激戦地で最強の敵と戦い続けてきたのだ。今まで、弱い敵としか戦ってこなかったアルナス騎兵とは全く別次元の強さである。どうにか弾雨を抜け、展開しようとするアルナス騎兵たち。だが、すぐに無数の召喚獣の群れに阻まれ、押しつぶされていく。魔術師団の中心で光り輝く杖を掲げ持つ青法衣の少女がいた。他ならぬアルジュナである。『聖杖オステア』は最もふさわしい所有者にめぐり合えた。彼女の展開した魔方陣は魔術師たちの魔法力を何倍にも増幅させる。星幽界投射の奥義、ここにあり。その力は無限にすら思えた。 「退け、退けぇーっ!」 敗色濃厚、といより、勝機は微塵もない。ドルナードは退却の号令出す。振り返る彼が見たのは巨大な五芒星であった。その直後、爆発が巻き起こり、ブレア城が炎上する。炎を背にして小柄な人影が二つ首をもたげる。二つの人影が城楼の上から飛び降りる。光るなにかが飛び散ると、何騎ものアルナス兵が絶命する。 金色の髪をした小柄な少女。見覚えがあった。ナルディアに与していた盗賊・メルトア。そしてもう一人、ブレア城を爆破した張本人、ムームーである。 「なるほど、貴様ならば我が軍の配置をある程度知っていたとしてもおかしくはない。だが、それだけでは正確な位置まではわかるまい。やはり裏切り者がいたのか」 どうにかして城から脱出したエフォードが、メルトアに問いかける。 「…………」 「メルトアはだーいたいの位置を教えてくれた。あとはテキトーにカンでやってみたの。かむわよ」 ムームーがメルトアに代わって説明のようなものをする。 「馬鹿な、勘…だと。そんなものに我らは敗れたのか」 だが、勘というのもあながち間違いとは言い切れない。死線を潜り抜けてきた歴戦の士には超人的な勘が備わるという。彼女たちもまた、死線を潜り抜けてきた勇士に他ならないのだから。 「いや、あんたらがそもそも弱過ぎんのよ」 西からやってきたウェントルがそう言う。 「ムームーさん、メルトアさん、お疲れさまです。でも、もうちょっと手加減してくれないと。ブレア城はこれからボクらが使うんですから」 アルジュナもまた、部下たちを率いてその場にやってきた。これまでか、ドルナード、エフォード両名は進退窮まった様子である。降伏は許さず、そう書状にあった。どうしようもないのか。そう思ったとき、どこからか煙球が投げ込まれた。 「!? いけない、みんな、ボクから離れないで!」 二つ影が飛び込んでくる。ヒオットとガウエンである。二人は救出対象の周囲のオステア兵を必要最低限だけ殺し、ガウエンがドルナード、エフォードの体を無理矢理に抱えて脱出する。 白髪の暗殺者がアルジュナたちの方へ向かってくる。メルトアのみが煙幕の中でも動けた。手裏剣を投げつけるもすべて払い落とされる。速い。互いに短剣を抜き放ち、刃を合わせる。剣の速度では負けていない。剣の重さでも負けていない。メルトアの技は既に熟練の技である。だが、そのさらに上をいく”神業”の使い手が目の前にいた。一太刀目を防いだメルトアであったが二太刀目はそうはいかない。刃が絡め盗られるような感覚の後、いなされ、体勢を崩す。足払い。天地が逆転する。完全に組み敷かれ、喉元に刃を突きつけられるまでの時間はまさに一瞬であった。これがプロ、いや、大陸一の暗殺者の腕である。煙幕が晴れ、互いの顔が露になる。メルトアは老暗殺者の顔をこれまで見たことはなかった。だが、風の噂で聞いていた。そして、実際に刃を交えてみてわかった。彼だ。彼が、かつて自分を魔獣の群れから救った人物だ。盗賊としてここまで生きながらえてきたが、彼がいなければ自分は死んでいた。言ってみれば、これはあの時もらった命を彼に返すようなものだ。なんとも皮肉な話ではあるが。少女は自嘲じみた笑いと、満足そうな表情をたたえ、死を受け入れた。ヒオットの方はというと、彼はあのときの少女の顔など覚えてはいない。あのときの少女と今、自分が刃を突きつけている少女の関連性など知りもしないし興味もない。だが、なぜだろうか、彼は目の前の少女から命を奪う気にはなれなかった。 刹那、老暗殺者の姿は音なくその場から掻き消えた。彼は生涯でただ一人、獲物を見逃した。 「あーあ、逃げられちゃったか」「見逃してくれた、のかも」「…………さすが……」 各方面軍がほぼ同時期に敗戦しつづけていた頃、可汗・スネアはアルナス砂漠の本拠地にいた。アルナスの諸侯やドワーフ、隠密集団の一部が逃げ帰ってきた。 「敗戦の責を問うつもりはない。現に敵が我らの予想を超えて強かった、それだけだ」 高い座にて敗軍の将たちを見やるスネアの目はいつも通り冷たい。 「ナルディアが軍を再び興したようだ。この地の北に集結している」 アルナス汗国とアルナス・ウルスの戦い再び。かつて、アルナス・ウルスの土侯たちは最悪のタイミングでナルディアを裏切り、アルナス汗国を崩壊に追い込んだ。あの時の汗国は、対外進出を行い、補給線は伸びきり勝利によって油断しきっていた。その隙を突くことはスネアには容易いことであったのだが、今のアルナス・ウルスはスネア当人から見ても付け入る隙だらけであった。各方面の軍を引き揚げてはいるが、全面的な撤退はできていない。そもそも、此度の撤退は敗走と呼んだほうがいい。未だ、アルナス・ウルス全体の兵力はナルディアの再興軍を圧倒してはいる。だが、手痛い敗戦の連続で士気は落ちているし、全軍の半分もこの地に集結できてはいない。仮に集結させたとして、負けて疲れて意気消沈した将兵が使い物になるのか。 どうにかして、アルナス・ウルスは全軍をアルナスの本城に集結させた。兵たちは無口になり、騎乗獣たちは落ち着かない。ドワーフとアルナス人たちがささいなことで喧嘩をおこし、それで死人も出た。状況は芳しくない。ルールーニなどは「放っておけば、それだけで崩壊しかねない」と言うほどであった。やはり、勝利か。勝利する以外に、この勢力が体裁を保つ方法はない。スネアは全軍に号令をかけた。攻撃目標は、アルナス汗国。 「待ちくたびれたぞ。ちょび髭」 ナルディアはスネアが全軍を集めて攻めてくるのを待っていた。集結前に攻撃することもできたのに。 「変わらぬな。」 同じ砂漠の民同士、互いの全力でもって雌雄を決しようという腹積もりであったのか。確かに、後の遺恨を残さない手ではある。 「その驕りが、火の賢者を殺した。そして、今まさに自分自身をも殺す。貴様は機を誤ったのだ」 「勘違いするでない。わらわはおまえたちのように『弱い敵』と好んで戦おうとは思わぬ。力の差を思い知らせ、誰が、主であるのかわからせてやろうと思うての」 「……そうか。この決戦に勝利した者こそが、まさにアルナスの覇権を手にする」 口上は終わり、両軍の総指揮官は互いの陣に戻る。先手を打ったのはスネアであった。小細工なしに全軍を前進させる。ドワーフに予め作らせておいた野戦陣地を盾にしつつ、徐々に射程内へと迫る。両指揮官の号令と共に両軍のアルナス騎兵たちの撃ち合いをはじめる。矢と兵の数に余裕があるスネア側はやや早いタイミングで矢を射ちはじめた。野戦陣地をうまく使い、スネアの兵たちは砂漠の丘陵、窪地とそこに無秩序に築かれた塹壕、土塁の上を跳ねるように動く。突進しすぎるきらいのあるナルディア配下の兵と違い、無理はしない。大軍の利を生かし、交代して攻撃と離脱を繰り返し、敵を消耗させる。巧みな用兵であった。現場指揮でもスネアの方が上手である。アルナス・ウルスの土侯らはそう思った。スネア側のアルナス騎兵たちに援護されつつ、遠くからも目立つ派手な全身鎧に身を包む戦士が前に出た。ジオムである。自慢の大盾はナルディアの兵たちの放つ騎射を通さない。鈍重なドワーフとは思えない速度で迫り、目前敵に突撃を食らわす。突撃の衝撃で大盾が銅鑼のような音をたてる。矢は効かず、ジオムの突撃を喰らえばまず助からない。一方的な虐殺にすら思える光景であった。 「オラオラァーーー! 俺と戦える奴いねぇのかぁあああ!!」 ジオムは咆える。それに答えたものがいた。巨大な氷塊がアルナスの乾いた空から降ってくる。3体のドワーフがそれに巻き込まれて、戦死した。氷塊の上から青い衣と銀の胸当てに身を包んだ女が降り立つ。 「では、お相手願いますわ」 ナルディアに仕えるその女は大陸でも有数の魔法剣の使い手であった。その名はカリン。ジオムとカリンの一騎打ちがはじまった。自然と両軍の将兵が取り巻きとなって二人を見守る。カリンは低く構えたかと思うと、そこから細かい左右へのフェイントを交えながら距離をつめる。結果的に彼女の剣がジオムに打ちかかるのはジオムの真上からであった。ジオムは盾を掲げてそれを受け止める。ジオムほどの使い手でなければ、この一太刀ですでに頭を割られていただろう。受け止めた剣を力任せに弾き飛ばそうとするジオムであったが、盾を振りぬいたとき、カリンの姿はない。既に彼女はジオム背後に回りこんでいた。恐るべき速度。声もなく閃光のごとき切っ先がジオムの脇腹を狙う。ジオムは振り返りもせずに斧でそれを受け止める。カリンの速さはジオムの膂力に殺され、ジオムの怪力もカリンの速度の前では生かしきれない。勝敗を決めたのは魔力であった。先ほど、二度の斬撃を受けた盾と斧がなにかに蝕まれ始める。それは、酸が鉄をとかすように、魔力が武具を侵食するのであった。さらに、カリンは一歩だけ距離をとると、即座に詠唱をはじめ、魔術を発動させる。ジオムの武具を侵食していた”魔力”は息を吹き込まれ、”魔法”となる。次の瞬間、ジオムの両腕が凍りついた。魔法を外部から撃ち込まれてもこうはならない。これが、魔法剣である。 「やるじゃ……ねぇか。青髪の姐ちゃん」 剣をジオムの額につきつけたのち、彼女はこう言った。 「カリンと申します。……以後、お見知りおきを」 そして剣を納める。鞘に収めた剣を横にして、両膝を少しだけ折って見せる仕草。それは北方式の礼であるという。待たせていた仲間の騎乗獣の後ろに乗り、カリンは去っていった。 日没をもって、両軍は一旦兵を退いた。数で劣るものの、汗国はアルナス・ウルスと互角に戦ってみせた。ともあれ、ジオムは陣に戻り、治療を受ける。驚くことに、凍傷により腕使えなくなるどころか、彼は傷らしい傷を負っていなかった。そこへ一人の老ドワーフがやって来た。 「ジオムよ、こっぴどくやられたようじゃの」 「ジャンク爺さんか。なんの、次はしくじらねぇよ」 ジャンクは老いたりとはいえ、ドワーフにしては大柄であった。重い腰をどっこいしょと椅子に下ろす。なにか重要な話があるようであった。ジャンクはアルナス・ウルスに雇われた身ではない。だが、多くの同朋がスネアの手先となった事態を憂い、度々こうして彼らを訪ねてまわった。 「次……か。のう、ジオムや。おぬし、スネアのためにこれからも斧を振るうつもりかいの?」 「なに言い出すんだ。あんたの知ったこっちゃねぇだろ。金をもらったから戦う。傭兵にこれ以上の理由があるんのか?」 少しだけ二人の間の空気が悪くなる。ジャンクは平たく言えば、出奔を促しに来たのだ。そもそも、この老人は訪れては、理想論を語り、スネアに大義なく、ドワーフたちが与する理由はないと説く。だが、現実は理想通りにはいかない。ジオムも家族や部下を食わせていくために金を稼がなくてはならない。彼に一番会った金稼ぎの方法が傭兵である。 「じゃが、もう、スネアはおまえさんに給料を払ってはくれんじゃろうて」 「なに? あのおっさんはやることは汚ぇが俺との契約はちゃんと守る奴だぜ」 「本人にその気が合っても死んでしまっては金は払えんわい」 スネアが死ぬ。ジャンクはそう言った。いつの間にかドワーフたちが集まって来ていた。その中にはベガレスもいた。 「おう、ベガレス。それに野郎ども。どうした、こんな団体で夜にピクニックでもするのか?」 冗談を交えて話すジオムであったが、ドワーフたちの表情はそれは尋常ならざる事態を物語っている。 「ジオム……俺たちはこの軍を抜ける」 ベガレスはそう決断した理由を語った。ラザムとオステアが共闘の目標を定めたらしい。汗国もまた、ラザムと同盟しこの共闘に参加した。目標はアルナス・ウルス。さらに、ハルト国がムナード党を滅ぼし、ラザムとハルト国は停戦。ハルト国の西部軍が西進をはじめている。攻撃目標はやはりアルナス・ウルス。既にブレア西、ゴイザムの入り口国境にはラザム軍の姿はないものの、オステア・ハルト国の軍勢が集結している。こうして、アルナス・ウルスは汗国、オステア、ハルト、ラザムの四カ国に狙われることとなる。アルナス・ウルスには外交のパイプもなく国際的に孤立している。そして、これまでの戦いで彼らの弱さは証明済みである。包囲網を築いた国と一対一でもアルナス・ウルスでは勝ち目は薄い。弱い敵から潰す。弱いから狙われたのである。 「おいおい、さすがにそりゃあ急ぎすぎじゃねぇのか。まだ負けと決まったわけじゃあ……」 「どうかのぅ。かつて倒したアルナス汗国にすら遅れをとっているようなこの軍にできることはたかが知れておるがのう」 「抜け目ないアルナスの土侯どもは生き残る算段をしてる。そいつぁ、スネアの首をナルディアに差し出すこと、だ」 ジオムは外を見た。アルナス兵たちが忙しく動いているが、逃げようとしたり、あるいはスネアの首を取るために忙しく動いているようだ。外の空気は、幕舎の中よりも淀み、荒みきっていた。これは、負ける。そう彼の勘が言っている。雇い主が支払い能力を失えば、傭兵が雇い主を見捨てるのは常識。ジオムはやりきれない表情のまま武具を身に纏うと、幕舎の外に飛び出した。つい先ほどまで味方だったアルナス兵たちを蹴散らして血路を拓く。アルナス兵たちもジオムらを本気になって止める義理もない。抵抗らしい抵抗もなく、道を開けた。 スネアは土侯たちがそれぞれの手勢を率いて不穏な動きをしているのを察知していた。既に、彼に従うのは数えるほどの「蛇の部族」の子飼いの部下たちと謎の男、フリンクのみであった。 「そういや、デッドライトとかぬかすあの女はどこにいったんだ」 「さぁな……」 「ある時を境に、あんたの牙――戦略眼が鈍った。それからというもの、俺たちの軍は失敗つづきの負け続けだ。ちょうど、あの女はいなくなった頃だったような気がするんだが。そう思うのは俺だけか?」 このフリンクという男は、洞察力が鋭い。スネアは珍しく、己の知ることを包み隠さず語った。 「あの女はな、私を覇者とするため導くなどとぬかしつつ、私を利用していたのだ。ラザムを攻撃するためにな。だが、私の力では光の賢者や神剣の主を殺せないと見るや、すぐに私に見切りをつけた。私も最初から、あの女を出し抜いてやるつもりであった。利用されるふりをしてな。だが、結果は見ての通りだ。私は、覇者の器ではなかったということだ」 「俺が聞いてるのはそんなことじゃねぇ。あんたのせいで、蛇の部族はお先真っ暗だ。ナルディアの小娘は蛇の部族を一人足りとて生かしちゃあおかんだろう。あんたが分不相応な野心を起こして勝手に野垂れ死ぬのはいい。だが、こいつらまで巻き添えにするな!」 フリンクの出自は不明である。この場でも、彼の出自は明らかにはならなかった。だが、彼は、今滅びようとしている蛇の部族のことを他人事ではないように語る。それは、彼らの姿をかつての自分と重ね合わせているかのようでもあった。無言のまま、いくつもの弓が引き絞られる。狙いはスネアただひとり。もう、彼の味方はこの世にひとりもいなかったのである。「毒蛇の牙」が毒蛇自身を捉え、一斉に襲い掛かった。 スネアは眼前に展開したナルディア大汗の軍勢に目をやる。既に彼に抵抗する力はない。ナルディアは配下にスネアを捕縛するように伝える。各部族の長となる者は、幼少の頃から毒殺、暗殺に対する抵抗力をつけるために少しずつ毒を喰らい抵抗力をつける。蛇の部族の長ともなれば相当な強さの毒に耐えうる。皮肉にもその毒への抵抗力のついた体は、彼を救うことはなく、長く死までの苦しみを続かせるのみであった。 「報告。フリンクが蛇の部族の生き残りを率いて逃亡したとのこと。他の部族の土侯らは此度の反乱の責はすべてスネアにあるとして、大汗に恭順の意を示しております」 「土侯どもをこの場に引っ立てい!」 ドルナード、ルールーニ、エフォードら土侯たちがナルディアの前に引っ立てられた。彼らの前にはそれぞれひとつずつ、物々しい紋様をした大きな壺が置かれる。 「わらわへの忠誠を示すならばその壺に手を入れよ。生まれかわったアルナスに必要な者は生き残るであろう」 「し、しかし、大汗。我らは脅されて……」「レグリス!」 見苦しい弁解をしようとしたドルナードの舌が切り落とされる。血を吐き散らし、のた打ち回ったのち、彼は動かなくなった。 「なにも、ナルディア様はあなたがた部族を皆殺しにするとは申しておりません。ですが、仮にも反乱があり、大汗が流浪の身になるという事態に到ったのです。多くの同朋たちが死にました。あなたがたの叛意の有無に関わらず、部族の長として責任をとる必要はおありでしょう?」 「……わかった。このルールーニの死に様、我が部族の者達に伝えられよ」 ルールーニは意を決して手を壺の中に入れる。彼の肌の色は、みるみるうちに青ざめ、黒ずんでいく。口元から黒く変色した血が溢れる。つぼの中になにが入っていたのか想像に難くない。ルールーニはそれでも表情を変えず、声ひとつ漏らさずに死ぬまで苦しみに耐えた。 エフォードもまた、それに倣うと決め、壺に手を入れる。だが、エフォードが死ぬことはなかった。壷の中は空であった。ナルディアははじめからエフォードを赦すつもりであったのである。 縄目についたままスネアは三名の土侯への裁きの様を見届けていた。恐らく、ルールーニを殺した毒は自分に使われたものと同じもの。そして、自分が受けた毒の量はルールーニの受けた量の数倍。なのに、自分は未だに生きている。 「……ああ、そうか」 それまで終始無言であった男はなにかを悟ったかのように口を開いた。全身に猛毒の矢を受け、生きているのが不思議なほどである。その場にいた汗国の全員がスネアに注目する。その声は小さく、死に際の一言であるのがうかがえる。 「……ナルディアよ。……此度の勝利は貴様の力ではない……ぞ。……だが、貴様は勝利……した。……私という悪は滅び去る……アルナス……繁栄………貴様次第……」 最期の力で、スネアは顔を上げる。彼の眼に映ったのは、かつての傲慢で浅はかな少女ではなかった。多くの死や悲しみ、挫折を乗り越えたナルディアは美しく強い大狼となっていた。スネアは最期の言葉を紡いだ。 「……毒蛇は……頭を潰せ……」 カリンが一振りの曲刀を持ち、ナルディアの前に差し出す。 「ナルディア様」 「……うむ」 ナルディアはスネアに止めを刺す。振り下ろされた切っ先は優美な曲線を描き、抵抗なくスネアの首を落とした。毒で変色した黒い血が噴き出すかと思いきや、出てきたのは赤い血であった。胴体から離れたスネアの首はなぜか安らかな表情をしていた。 それから後、ナルディアはアルナス国内を平定して廻った。保守派の勢力は国内にしぶとく生き残り、大汗軍に抵抗した。それらに対し、ナルディアは、容赦ない殲滅指令を下す。それに震え上がった諸侯からは、次第に反乱のきざしはなくなっていった。平原への移住政策は取りやめた。そもそも、対外進出自体を取りやめ、国内を安定させることに専心した。 エフォードは、大汗からの支持を得て、主に交易による収入源確保に貢献した。彼はラザムとの交渉役としても重要な人物であった。アルナス・ウルスにいる時には閉めていたコーヒーハウスも再開した。彼のコーヒーハウスにはラザム、アルナスのみならず大陸から様々な人々が訪れた。比較的気候の穏やかなホラガス地区にコーヒー農園を作った。老後はそこでのんびりと隠居したいのだという。 グリンジャは、少数の手勢を率いて砂漠を駆け回っていた。アルナス砂漠の覇権がナルディアの手に戻ったとはいえ、隊商を襲う賊は存在する。彼女は隊商の護衛の任についた。一部族の長ともあろうものが、そんな傭兵まがいのことを、と余人は言うだろう。だが、彼女は気にしない。そもそも、彼女には一部族の長という地位などどうでもよかったのだ。グリンジャは砂漠での行軍の天才であった。その才は平時にも発揮される。彼女は砂嵐や極端な気温の上昇を事前に察知した。水場の位置を把握し、また、新たに水場を発見する。賊が隊商を襲いやすい地形も把握していた。多少廻り道になっても安全な道をとった。こういったことは、砂漠の案内人としては常識ともいえる地味な働きではあったが、これだけのことを一人でやってみせるのは砂漠広しと言えどそうはいない。さらに、賊を一瞬で追い払う剣の冴えをも持つのは彼女を於いて他にいないであろう。彼女によって無事に届けられた人と物資は数知れず。 「砂漠の旅は長く辛い。そう思っていたが、グリンジャはそこから苦と難を除き、風に流す。乾風と日差しに眼を細めて、砂漠とは自然の驚異であるかな、などと詠もうとした頃には、風はそよ風に変わっていた。グリンジャに守られての砂漠越えはアルナスの風に運ばれてきたような心地であった」 このように、とある商人は語る。 盗賊たちを自力で捕らえ、改心させている僧侶の噂があった。なんでも、その僧侶は素手でモンスターをも殴り倒すほどの怪力なのだそうだ。こんな噂をしていると、チックニアがやって来るという。チックニアは孤児たちを保護し、怪我人・病人を格安で診て、さらには盗賊退治まで一人でやってのけた。盗賊、僧侶、一般人、アルナスの戦士たちそのいずれにも分け隔てなく慈愛の心で接する聖女。だが、彼女に逆らうと容赦ない鉄拳が飛んでくるという。 レグリスはナルディアのもとを離れた。出奔ではない。風のように自由に生きるのが彼の性分だ。また気まぐれでふらっとこの地を立ち寄るかもしれない。だが、ナルディアが窮地に立たされると、どこからか風車が飛んできて彼女を救ったという。もしかしたら、わりと近くにいるのかもしれない。 カリンはナルディアを軍政両面でよく補佐した。戦場に出ることはめっきり減り、軍編成の兵站面での管理をする。彼女は真の意味で名臣であったといえよう。彼女は、中原などで行われている先進的な制度を仕入れてきては、ナルディアとともによく検討した。アルナスの地にその制度を導入するのになにか不都合はないか。彼女たちが過去の失敗から学んだことである。苦慮の末に実施された新法、新制度がアルナスに則したものでなかった場合はその修正案を考え、場合によっては思い切って取りやめにした。国を治めるということはこれほどにも大変なことか、と彼女たちは改めて痛感した。いくつもの失敗を乗り越えて、数々の新制度にアルナス式のアレンジが加えられたものが編み出される。そのカリン・ナルディア考案の法・制度は今度は中原に向けて輸出された。 砂漠一の極悪人 そいつは毒蛇 その名もスネア 人をだまして宝を盗み 人をだまして噛み殺す 悪い悪い毒蛇は 偉大な狼に捕まった 頭を潰せ 頭を潰せ 毒蛇の頭潰しちゃえ 悪い悪い毒蛇は 頭を潰され死んじゃった これで安心 もう安心 我らを守る大狼 ナルディア大汗万々歳 城下で旅芸人が歌った歌である。既にナルディアとスネアの戦いは物語として子供らにも語られている。この歌で語られるのは英雄の勇姿と裏切り者の末路である。 ナルディアはアルナスの本城のバルコニーに建つ。ここは見晴らしがよく、城下を一望できる。ナルディアはかつて、アルナスを取るに足らないつまらない土地と思っていた。中原の豊かさ、中原の進んだ文化を奪い取り、自分が大陸を支配すれば誰も逆らわないと本気で信じていた。先王もまた、ブレア侵攻を悲願としていたため、自分の考えに疑問を抱くこともなかった。だが、いざブレア制圧を果たしてみれば、あのようなこととなった。ナルディアは足元に少しだけ積もっていた砂をすくい取る。幼少の頃から見飽きるほどに見てきた砂。彼女はこれをかつて忌まわしいと思っていたが、今ではいとおしく思える。アルナスの民はここで生きていけばいい。今は、胸を張ってそう言える。 以後、ナルディア大汗はアルナス史上、最も長く安定した王朝を築いた人物として歴史に名を残す。そして、その宿敵であった「アルナスの毒蛇」は最も残忍で狡猾な悪役として語り継がれる。多くの同朋を死に追いやった大罪人。裏切りの連続で諸国を混乱のどん底に陥れた極悪人。などと、人は彼を呼ぶ。それもまた真実。だが、スネアという悪が現れ、苦難の末にナルディアたちがこれを倒したからこそ、アルナスの人々はひとつになれたのである。一説によると、スネアは死ぬ間際に悟ったのだという。自分が、アルナスに平和をもたらす為の生贄になったということに。彼は全てを失った上で殺され、死後も蔑まれ続ける。彼は全てとはまではいかないまでも、多くの人々の憎しみを一身に受け、罪を背負って死んでいった。毒に蝕まれつつも、最期にあの言葉を残せたのも、そう思えばこそではなかろうか。彼の穏やかな最期の表情の理由もそう受け止められなくもない。――そんな考えがナルディアの脳裏をよぎった。だが、彼を祭り上げることなどできない。ならば、悪として語り継ごう。それを彼も望んでいるかもしれない。称えよ、ナルディア大汗とその功臣を。忘れるな、アルナスの毒蛇・スネアを。 ---- - かなり長いけど、まあよめたので、なかなか秀逸だと思います。 -- 名無しさん (2011-02-06 01:19:06) - 素晴らしい! -- 名無しさん (2011-04-01 09:53:35) - うーむ、勧善懲悪では飽き足らないうるさい客だから批判的に見ちゃうけど、好きな人はおおいんじゃない。 -- 名無しさん (2011-04-02 14:46:29) #comment(size=60,vsize=3) ----
. 月のない砂漠の夜、その男は最期の時を迎えようとしていた。眼前には黒い血溜まり。それは彼自身が作り出した「毒蛇の牙」なる毒のせいだ。全身に受けた矢傷から毒は侵食し、血の赤さえ黒へと変えた。恐らく、自分は今、どうしようもなく醜い姿をしているのだろう。月のないのが幸いであった。血溜まりに自分の顔が映ることはなかった。彼の近くの砂地に火矢が一本突き刺さる。ナルディア大汗の軍勢が追ってきたのだ。 ここに到る経緯を追ってみよう。アルナスの毒蛇・スネアは、アルナス砂漠とその近辺を制圧し、ナルディアの勢力を滅ぼした。その後も騙まし討ちや裏切り、様々な策略を駆使して勢力を拡大する。「機を誤らぬこと」常々スネアはそう口にしていた。即ち、弱い敵を選び、あるいは弱い敵を作ってからそれを攻める。兵法の常道ではあれど、それをここまで体現してみせたのは彼を於いて他になかったと言えるかもしれない。ラザムが魔王軍残党や死霊軍と戦うとき、魔王軍残党同士が内紛で衝突するとき、彼は敵国の弱点を即座に見切り、そこを攻撃した。その動きは、毒蛇が獲物の脈所を見つけ、恐るべき速度で襲い掛かり牙を突き立てる様そのものであった。 だが、いくら彼の頭脳や戦略眼が優れていても限界はある。版図拡大に伴い、アルナス・ウルスの軍勢は次第に大きくなっていった。大きくなりすぎたのだ。領内の各地で問題が生じ、それを一つ鎮火させてもまた別のところで問題が生じた。そのうち、把握しきらない、また対応しきれないところで綻びが生じる。 ゲルザク峡谷にて。この地はムナード党・ラザムの攻撃を防ぐ、重要な防衛ラインを築かれた要衝であった。 この地の北、ミッドウェイ西を保有していたグリーン・ウルスはその地を捨てて逃げた。現地の指揮官は「岩の部族」の長、ルールーニ。防衛ライン構築の責任者は、「ドワーフの投石機」ベガレスである。はじめ、ルールーニとベガレスは反目していた。短期間のうちに、ベガレスは広大な土地に塹壕を掘り、土塁を積み上げる。断崖の壁面にはちょっとした袋のような形の拠点を設けることで、監視塔の役割をする。もちろん、断崖の上にも監視塔や拠点を置く。この地の指揮官の本陣にはいかにもドワーフらしいこの上なく堅牢で仰々しい城砦を用意した。なにかと文句をつけたがる気質のルールーニは、「こんなドワーフ式な築城の仕方でよいのか」などと言った。だが、いざ戦争になると彼らは協力しあい、何度かの敵性勢力からの攻撃を跳ね返して見せた。ルールーニとベガレスは互いの働きを認めざるを得ないこととなる。 「砂岩の旦那。悪魔どもが北から攻めてくるって話だぜ」 砂岩の旦那とはルールーニのことである。ベガレスなりの軍で上官に当たるルールーニへの呼び方であった。岩の旦那とは呼はない。それだと、ドワーフにとってはルールーニがガルガンタ近辺の山々をも統べるかのように聞こえるからだ。だが、旦那という呼び方には敬いの意味が込められていた。 「またか。性懲りもなく。いつものように適当に遊んでやれ」 攻めてきたのはムナード党である。だが、その時のムナード党の攻勢はこれまでの規模ではなかった。北の空から現れた異形の群れは、断崖を丘陵を飛び越え、監視塔を飲み込む。アルナス・ウルスは悪魔の本当の恐ろしさを垣間見た。それまで敵を防いでいた塹壕も土塁も一瞬のうちに吹き飛ばされる。ベガレス隊が岩石投げによって何体かの悪魔を撃墜するも、敵の勢いは止まらない。ルールーニが手勢を率いて敵陣の側背に回り、魔術師たちを射殺すも、すぐさま闇魔法の応射によって対応される。 敵軍の中に一際巨大な悪魔が二体いた。ひとつはムーア。彼の悪魔は、上がり続ける魔軍の士気に呼応するかのようにみるみる巨大化していく。それは錯覚ではない、実際に巨大化しているのだ。 「虫ケラども、じわじわとなぶり殺しにしてやる!」 巨大化したムーアの腕は陣地ごとドワーフとアルナス騎兵たちを掬い上げ、バラバラと地に落とす。それだけで死ぬものもいた。運良く、あるいは運悪く生き残った者達は指先で弾かれたり、摘んでゆっくりと時間をかけて握り潰されたりした。まるで虫ケラを殺すがごとく。圧倒的な力の差を見せつけ、容赦なく、そして時たま長く苦しむように、惨たらしく殺す。 もう一体の巨大な悪魔はゼオンであった。ゼオンは地に降り立ち、大きく息を吸うと地響きを鳴らしながら突進する。猛牛、いや、この世のではない威力。巻き上がる粉塵。ひび割れ剥れ、砕け散る岸壁。その中に赤いものが混じる。巻き込まれた数十名のアルナス・ウルスの兵達は苦しむ間もなく、粉々になった。彼はゆっくりと苦しめて殺すようなことはしない。だからと言って情けもない。ただただ、大量の命を奪い続ける。なにかを渇望するかのように。豪腕を振るうと武具甲冑が砕け、骨肉が飛び散る。命乞いをする者、逃げる者にも容赦はしない。 「脆いんだよ、テメェら……」 強者がいない。彼にはそのことがこの上なく不満であった。近くの死に掛けのアルナス兵を繰り返し踏みつけている名もなき悪魔がいた。ゼオンはその悪魔の首根っこを引っ掴むと、岩肌に投げつけた。悪魔の五体はバラバラになる。岩が崩れ落ち、その威力を物語る。少しだけ安堵した死に掛けのアルナス兵であったが、自分を救った者の顔を見るとその表情は蒼白に変わる。ゼオンはその兵につばを吐きかけ、興味なさそうに飛び去る。自分の渇きを癒す強者はいないのか、あのノーアのような。彼は舌打ちし、北の空へと飛び去った。 幸か不幸か、ベガレスとルールーニはこの二体の悪魔と直接対決せずに済んだ。辛うじて持ちこたえていたゲルザク峡谷の本陣に生き残った将兵は集結していた。 「なんということだ。これが悪魔の力か」 ルールーニは自らの見識の狭さを呪った。魔王軍は分裂し、内紛状態にあり、それの隙を突けば勝てると思っていた。だが、アルナス・ウルスと悪魔たちとの力の差は歴然であった。 「あんな化け物と殴りあうなんざごめんだな。そういうのはジオムにでもやらせりゃあいい。じゃあ、旦那、俺らはこのへんで引き揚げるぜ」 ドワーフが山の戦いで負ける。それは彼らにとって屈辱以外のものでしかない。しかし、ベガレスはここに到るまで何度も負けを味わっている。その中で負け続けても生き残ることの方が重要だと学んだ。一瞬、「逃げずに戦え」と言いかけるルールーニであったが、状況を冷静になって見ればそんなことは言えない。ルールーニは大敗によって混乱した自軍の将兵を巧みに収拾し、ゲルザク峡谷の陣の放棄を通達した。自らが築き上げた城砦の礎石をベガレスは黄金の槌で破壊した。 所変わって、ここはオステアの港町。城壁は傷み、崩れ、民は長引く戦乱で疲弊しきっていた。ラザムと同盟したとはいえ、東の死霊は強大であり、西からはアルナスの蛮兵が虎視眈々を侵掠の機会を狙っている。さらには、ルートガルト、イオナ及びその他諸々の地方からの難民が流れ込み、民は互いの生活を圧迫しあっていた。この弱りきったオステアは毒蛇の格好の餌食であった。 「ラファエル卿、そしてピコック卿は倒れた。第三執政アルジュナにこの国を率いていく器量はなく、我らオステアの命は風前の灯である。あろうことか、アルジュナの小娘は我らの命をラザムに売り渡し、自分のみが助かろうとしている。これを許してよいものか」 名もなき貴族風の男が街頭で演説をしている。アジテーター。彼がどこからの回し者であるのかは想像に難くない。彼の論には甚だ乱暴なところが目立つものの、日々の衣食にも欠く民に多少なりとも不安を抱かせる。ひとつひとつの策略では決定打にはならない。だが、それは、岩に水が染み入るかのように、徐々にオステアの地盤を脅かしていった。 オステアの首脳部が本格的にラザムに降伏するという情報がアルナス・ウルスへと舞い込んできた。頃合いか。ブレア城にて刃を研いでいた刺客たちは音なく宵闇を駆ける。東へ。ブレア東を一気に抜け、オステアの国境を飛び越える。綻びの生じた城に忍び込むのは影たちには容易いことであった。ちょうどその頃、本城の会議室にはクレア、エルティア、キュラサイトらが集まっていた。だが、最重要ターゲットのアルジュナの姿がない。刺客・テオード、ヒオット、ガウエンは会議室の屋根裏に張り付く。 ”様子がおかしい” ヒオットがアサシンのみにわかる合図で異常を告げる。テオードにはどう様子がおかしいのかが理解できなかった。ガウエンは黙っている。 (ヒオットのジジイ、俺を出し抜いて手柄を独り占めにしようとしてやがるな。どの道、この状況で仕事に失敗することはないだろう) テオードはそう心の中でつぶやいた。そして、テオードはターゲットの集まる会議室に自前の爆弾を投げ込んむ。フッ。爆弾の導火線の火が消える。キュラサイトの白い剣が飛来する爆弾の導火線のみを斬ってみせたのだ。そして、屋根裏に向けて、大量の氷の槍が撃ち込まれる。その威力は屋根ごと刺客たちを吹き飛ばすほどであった。テオードは手傷を負う。狙いが当てずっぽうであったのと、彼の持ち前の強運が幸いした。周りを見回すと、ヒオットとガウエンの姿はない。奴等のことだ、既に離脱しているのだろう。テオードも這う這うの態で逃げ帰る。 アルジュナらは暗殺を見越していた。それどころか、業とラザムへの降伏という偽情報を流して刺客たちを呼び込んだ。ヒオットをはじめとする”影”たちの任務は暗殺のみではない。彼らは敵の工作員や密偵を見つけ出し、狩る。早く且つ秘密裏に情報を運ぶことも彼らの任務だ。情報戦・謀略戦に彼ら隠密集団は無くてなくてはならない存在だ。ヒオットらがここにおびき出され、ブレア城を留守にしている間、ブレア城駐屯軍の情報伝達能力と策略への対応能力は一時的に低下していた。 ウェントルはわずかな手勢を率いて西へ進んでいた。ブレア城を通り越し、さらに西へ。ターゲットはブレア西とアルナスの砂漠とをつなぐ橋頭堡となる敵拠点。平原と砂漠とを繋ぐ、敵のアキレス腱である。ウェントル隊は見張り台の兵を狙撃する。気付かれることなく奥へ、さらに奥へと入り込む。そして、拠点の中枢部に達した後は一瞬であった。 「お、おまえは、オステアの……。なぜ、ここに」 「斬り刻め。ソードラッシュ!」 乱舞する剣。建物は木片に、人馬は屍に。全滅には至らない。だが、大きな被害を与える。仕上げに厩に火を放ってから逃げる。拠点を制圧することも潰すことも目的ではない。ただ、連絡のための機能を低下させつつ後方を攪乱すること、それが彼女の隊の任務であった。同様の手を他の拠点にも及ばせるため、ウェントルたちはその場をあとにした。 マジックナイトの部隊もまた動いていた。ターゲットはブレア東のアルナス・ウルスの拠点。ウェントル隊ほどの速度はないが、彼女の攻撃は的確かつ有効打であった。 無論、留守を任された隠密集団たちもこの動きを看過したりはしない。遅ればせながら攪乱工作、急襲を行う部隊の動向をかぎつけ、それを阻止しに向かう。闇に生きるものにとって数少ない功名を成す機会。だがそれをものにできたものその時のアルナス・ウルス側にはいなかった。闇の中を飛び交う黒いなにかが彼らの額に突き刺さる。手裏剣と呼ばれる暗器であった。金色の髪をしたその小柄な影は、仕事を終えたことを確認するとその場から去った。 ブレア城に報せを持ってくる隠密は、いない。ブレア城の軍は東西、そして前後の拠点を攪乱され、隠密戦、情報戦で遅れを取った。外の状況側からない。城壁の外からも只ならぬ殺気が感じられる。空気が重苦しい。人を守るはずの城は今や棺おけのように息苦しいものとなっていた。だからと言って迂闊に動くこともできない。 「どういうことだ、我が軍の配置が完全に読まれているようではないか。あらゆる手において後手に回っている。これは、もはや裏切り者がいたとしか」 軍議の場でドルナードはこう漏らす。だが、彼の指摘も最もであった。オステア側の特務隊の襲撃は早くかつ正確すぎた。敵方にこちらの情報が漏れているとしか考えられなかった。だが、ここで”裏切り者”という言葉は禁句であった。土侯たちは押し黙り、重い空気はさらに沈む。同部族の集団とはいえ、利害の一致でのみ成り立った寄り合い所帯がアルナス・ウルスだ。いつ誰が裏切ってもおかしくはない。 (策を弄しすぎたか) オステアを策略によって追い詰めるはずが、こちらが追い詰められていた。程なくして、敵襲の報せが飛び込んでくる。強行軍。大軍。オステアの軍勢であった。 「奴らは正気か? あれほどの大軍を動員してはオステアの守りはどうするつもりだ」 エフォードは驚きの声を上げる。これほどの大軍をブレア城付近まで近づけてしまうとは。一連の見えざる攻防によってアルナス・ウルスの情報伝達能力が著しく低下し、眼をふさがれたも同然であった。オステアが本拠地をほとんど留守にできたのは、ラザムがオステア近辺の死霊たちを一時的にとはいえ一掃してくれたからである。この進軍は半ば賭けであった。だが、アルジュナは明日を掴み取るために、踏み出した。それに、アルナス・ウルスは「弱い敵」である。弱い敵から潰すのは常道である。アルナス・ウルスはこれまで弱い敵を選び、あるいは弱い敵を作ってからそれを攻めてきたが、彼らは今まさに「弱い敵」の立場に立たされていた。ブレア城の軍議の場にオステアから書状が届いた。 ”アルナスの皆さん。今すぐ中原から出て行ってください。降伏とかはいりません。ただ出て行ってください。ちなみに時間の猶予はありません。ボクたちは忙しいので。今から攻撃を仕掛けます。逃げてください” 「ふざけた真似を。全軍、配置につけ、中原の軟弱者どもに思い知らせてくれる!」 ドルナードは容易く挑発にのった。城塞の利を生かさずに、アルナス騎兵たちは打って出る。出てきたところを待ち受けていたのは、魔法の雨であった。ピコックが育て上げ、死して尚守り抜いた魔術師団は強い。彼女たちは最激戦地で最強の敵と戦い続けてきたのだ。今まで、弱い敵としか戦ってこなかったアルナス騎兵とは全く別次元の強さである。どうにか弾雨を抜け、展開しようとするアルナス騎兵たち。だが、すぐに無数の召喚獣の群れに阻まれ、押しつぶされていく。魔術師団の中心で光り輝く杖を掲げ持つ青法衣の少女がいた。他ならぬアルジュナである。『聖杖オステア』は最もふさわしい所有者にめぐり合えた。彼女の展開した魔方陣は魔術師たちの魔法力を何倍にも増幅させる。星幽界投射の奥義、ここにあり。その力は無限にすら思えた。 「退け、退けぇーっ!」 敗色濃厚、といより、勝機は微塵もない。ドルナードは退却の号令出す。振り返る彼が見たのは巨大な五芒星であった。その直後、爆発が巻き起こり、ブレア城が炎上する。炎を背にして小柄な人影が二つ首をもたげる。二つの人影が城楼の上から飛び降りる。光るなにかが飛び散ると、何騎ものアルナス兵が絶命する。 金色の髪をした小柄な少女。見覚えがあった。ナルディアに与していた盗賊・メルトア。そしてもう一人、ブレア城を爆破した張本人、ムームーである。 「なるほど、貴様ならば我が軍の配置をある程度知っていたとしてもおかしくはない。だが、それだけでは正確な位置まではわかるまい。やはり裏切り者がいたのか」 どうにかして城から脱出したエフォードが、メルトアに問いかける。 「…………」 「メルトアはだーいたいの位置を教えてくれた。あとはテキトーにカンでやってみたの。かむわよ」 ムームーがメルトアに代わって説明のようなものをする。 「馬鹿な、勘…だと。そんなものに我らは敗れたのか」 だが、勘というのもあながち間違いとは言い切れない。死線を潜り抜けてきた歴戦の士には超人的な勘が備わるという。彼女たちもまた、死線を潜り抜けてきた勇士に他ならないのだから。 「いや、あんたらがそもそも弱過ぎんのよ」 西からやってきたウェントルがそう言う。 「ムームーさん、メルトアさん、お疲れさまです。でも、もうちょっと手加減してくれないと。ブレア城はこれからボクらが使うんですから」 アルジュナもまた、部下たちを率いてその場にやってきた。これまでか、ドルナード、エフォード両名は進退窮まった様子である。降伏は許さず、そう書状にあった。どうしようもないのか。そう思ったとき、どこからか煙球が投げ込まれた。 「!? いけない、みんな、ボクから離れないで!」 二つ影が飛び込んでくる。ヒオットとガウエンである。二人は救出対象の周囲のオステア兵を必要最低限だけ殺し、ガウエンがドルナード、エフォードの体を無理矢理に抱えて脱出する。 白髪の暗殺者がアルジュナたちの方へ向かってくる。メルトアのみが煙幕の中でも動けた。手裏剣を投げつけるもすべて払い落とされる。速い。互いに短剣を抜き放ち、刃を合わせる。剣の速度では負けていない。剣の重さでも負けていない。メルトアの技は既に熟練の技である。だが、そのさらに上をいく”神業”の使い手が目の前にいた。一太刀目を防いだメルトアであったが二太刀目はそうはいかない。刃が絡め盗られるような感覚の後、いなされ、体勢を崩す。足払い。天地が逆転する。完全に組み敷かれ、喉元に刃を突きつけられるまでの時間はまさに一瞬であった。これがプロ、いや、大陸一の暗殺者の腕である。煙幕が晴れ、互いの顔が露になる。メルトアは老暗殺者の顔をこれまで見たことはなかった。だが、風の噂で聞いていた。そして、実際に刃を交えてみてわかった。彼だ。彼が、かつて自分を魔獣の群れから救った人物だ。盗賊としてここまで生きながらえてきたが、彼がいなければ自分は死んでいた。言ってみれば、これはあの時もらった命を彼に返すようなものだ。なんとも皮肉な話ではあるが。少女は自嘲じみた笑いと、満足そうな表情をたたえ、死を受け入れた。ヒオットの方はというと、彼はあのときの少女の顔など覚えてはいない。あのときの少女と今、自分が刃を突きつけている少女の関連性など知りもしないし興味もない。だが、なぜだろうか、彼は目の前の少女から命を奪う気にはなれなかった。 刹那、老暗殺者の姿は音なくその場から掻き消えた。彼は生涯でただ一人、獲物を見逃した。 「あーあ、逃げられちゃったか」「見逃してくれた、のかも」「…………さすが……」 各方面軍がほぼ同時期に敗戦しつづけていた頃、可汗・スネアはアルナス砂漠の本拠地にいた。アルナスの諸侯やドワーフ、隠密集団の一部が逃げ帰ってきた。 「敗戦の責を問うつもりはない。現に敵が我らの予想を超えて強かった、それだけだ」 高い座にて敗軍の将たちを見やるスネアの目はいつも通り冷たい。 「ナルディアが軍を再び興したようだ。この地の北に集結している」 アルナス汗国とアルナス・ウルスの戦い再び。かつて、アルナス・ウルスの土侯たちは最悪のタイミングでナルディアを裏切り、アルナス汗国を崩壊に追い込んだ。あの時の汗国は、対外進出を行い、補給線は伸びきり勝利によって油断しきっていた。その隙を突くことはスネアには容易いことであったのだが、今のアルナス・ウルスはスネア当人から見ても付け入る隙だらけであった。各方面の軍を引き揚げてはいるが、全面的な撤退はできていない。そもそも、此度の撤退は敗走と呼んだほうがいい。未だ、アルナス・ウルス全体の兵力はナルディアの再興軍を圧倒してはいる。だが、手痛い敗戦の連続で士気は落ちているし、全軍の半分もこの地に集結できてはいない。仮に集結させたとして、負けて疲れて意気消沈した将兵が使い物になるのか。 どうにかして、アルナス・ウルスは全軍をアルナスの本城に集結させた。兵たちは無口になり、騎乗獣たちは落ち着かない。ドワーフとアルナス人たちがささいなことで喧嘩をおこし、それで死人も出た。状況は芳しくない。ルールーニなどは「放っておけば、それだけで崩壊しかねない」と言うほどであった。やはり、勝利か。勝利する以外に、この勢力が体裁を保つ方法はない。スネアは全軍に号令をかけた。攻撃目標は、アルナス汗国。 「待ちくたびれたぞ。ちょび髭」 ナルディアはスネアが全軍を集めて攻めてくるのを待っていた。集結前に攻撃することもできたのに。 「変わらぬな。」 同じ砂漠の民同士、互いの全力でもって雌雄を決しようという腹積もりであったのか。確かに、後の遺恨を残さない手ではある。 「その驕りが、火の賢者を殺した。そして、今まさに自分自身をも殺す。貴様は機を誤ったのだ」 「勘違いするでない。わらわはおまえたちのように『弱い敵』と好んで戦おうとは思わぬ。力の差を思い知らせ、誰が、主であるのかわからせてやろうと思うての」 「……そうか。この決戦に勝利した者こそが、まさにアルナスの覇権を手にする」 口上は終わり、両軍の総指揮官は互いの陣に戻る。先手を打ったのはスネアであった。小細工なしに全軍を前進させる。ドワーフに予め作らせておいた野戦陣地を盾にしつつ、徐々に射程内へと迫る。両指揮官の号令と共に両軍のアルナス騎兵たちの撃ち合いをはじめる。矢と兵の数に余裕があるスネア側はやや早いタイミングで矢を射ちはじめた。野戦陣地をうまく使い、スネアの兵たちは砂漠の丘陵、窪地とそこに無秩序に築かれた塹壕、土塁の上を跳ねるように動く。突進しすぎるきらいのあるナルディア配下の兵と違い、無理はしない。大軍の利を生かし、交代して攻撃と離脱を繰り返し、敵を消耗させる。巧みな用兵であった。現場指揮でもスネアの方が上手である。アルナス・ウルスの土侯らはそう思った。スネア側のアルナス騎兵たちに援護されつつ、遠くからも目立つ派手な全身鎧に身を包む戦士が前に出た。ジオムである。自慢の大盾はナルディアの兵たちの放つ騎射を通さない。鈍重なドワーフとは思えない速度で迫り、目前敵に突撃を食らわす。突撃の衝撃で大盾が銅鑼のような音をたてる。矢は効かず、ジオムの突撃を喰らえばまず助からない。一方的な虐殺にすら思える光景であった。 「オラオラァーーー! 俺と戦える奴いねぇのかぁあああ!!」 ジオムは咆える。それに答えたものがいた。巨大な氷塊がアルナスの乾いた空から降ってくる。3体のドワーフがそれに巻き込まれて、戦死した。氷塊の上から青い衣と銀の胸当てに身を包んだ女が降り立つ。 「では、お相手願いますわ」 ナルディアに仕えるその女は大陸でも有数の魔法剣の使い手であった。その名はカリン。ジオムとカリンの一騎打ちがはじまった。自然と両軍の将兵が取り巻きとなって二人を見守る。カリンは低く構えたかと思うと、そこから細かい左右へのフェイントを交えながら距離をつめる。結果的に彼女の剣がジオムに打ちかかるのはジオムの真上からであった。ジオムは盾を掲げてそれを受け止める。ジオムほどの使い手でなければ、この一太刀ですでに頭を割られていただろう。受け止めた剣を力任せに弾き飛ばそうとするジオムであったが、盾を振りぬいたとき、カリンの姿はない。既に彼女はジオム背後に回りこんでいた。恐るべき速度。声もなく閃光のごとき切っ先がジオムの脇腹を狙う。ジオムは振り返りもせずに斧でそれを受け止める。カリンの速さはジオムの膂力に殺され、ジオムの怪力もカリンの速度の前では生かしきれない。勝敗を決めたのは魔力であった。先ほど、二度の斬撃を受けた盾と斧がなにかに蝕まれ始める。それは、酸が鉄をとかすように、魔力が武具を侵食するのであった。さらに、カリンは一歩だけ距離をとると、即座に詠唱をはじめ、魔術を発動させる。ジオムの武具を侵食していた”魔力”は息を吹き込まれ、”魔法”となる。次の瞬間、ジオムの両腕が凍りついた。魔法を外部から撃ち込まれてもこうはならない。これが、魔法剣である。 「やるじゃ……ねぇか。青髪の姐ちゃん」 剣をジオムの額につきつけたのち、彼女はこう言った。 「カリンと申します。……以後、お見知りおきを」 そして剣を納める。鞘に収めた剣を横にして、両膝を少しだけ折って見せる仕草。それは北方式の礼であるという。待たせていた仲間の騎乗獣の後ろに乗り、カリンは去っていった。 日没をもって、両軍は一旦兵を退いた。数で劣るものの、汗国はアルナス・ウルスと互角に戦ってみせた。ともあれ、ジオムは陣に戻り、治療を受ける。驚くことに、凍傷により腕使えなくなるどころか、彼は傷らしい傷を負っていなかった。そこへ一人の老ドワーフがやって来た。 「ジオムよ、こっぴどくやられたようじゃの」 「ジャンク爺さんか。なんの、次はしくじらねぇよ」 ジャンクは老いたりとはいえ、ドワーフにしては大柄であった。重い腰をどっこいしょと椅子に下ろす。なにか重要な話があるようであった。ジャンクはアルナス・ウルスに雇われた身ではない。だが、多くの同朋がスネアの手先となった事態を憂い、度々こうして彼らを訪ねてまわった。 「次……か。のう、ジオムや。おぬし、スネアのためにこれからも斧を振るうつもりかいの?」 「なに言い出すんだ。あんたの知ったこっちゃねぇだろ。金をもらったから戦う。傭兵にこれ以上の理由があるんのか?」 少しだけ二人の間の空気が悪くなる。ジャンクは平たく言えば、出奔を促しに来たのだ。そもそも、この老人は訪れては、理想論を語り、スネアに大義なく、ドワーフたちが与する理由はないと説く。だが、現実は理想通りにはいかない。ジオムも家族や部下を食わせていくために金を稼がなくてはならない。彼に一番会った金稼ぎの方法が傭兵である。 「じゃが、もう、スネアはおまえさんに給料を払ってはくれんじゃろうて」 「なに? あのおっさんはやることは汚ぇが俺との契約はちゃんと守る奴だぜ」 「本人にその気が合っても死んでしまっては金は払えんわい」 スネアが死ぬ。ジャンクはそう言った。いつの間にかドワーフたちが集まって来ていた。その中にはベガレスもいた。 「おう、ベガレス。それに野郎ども。どうした、こんな団体で夜にピクニックでもするのか?」 冗談を交えて話すジオムであったが、ドワーフたちの表情はそれは尋常ならざる事態を物語っている。 「ジオム……俺たちはこの軍を抜ける」 ベガレスはそう決断した理由を語った。ラザムとオステアが共闘の目標を定めたらしい。汗国もまた、ラザムと同盟しこの共闘に参加した。目標はアルナス・ウルス。さらに、ハルト国がムナード党を滅ぼし、ラザムとハルト国は停戦。ハルト国の西部軍が西進をはじめている。攻撃目標はやはりアルナス・ウルス。既にブレア西、ゴイザムの入り口国境にはラザム軍の姿はないものの、オステア・ハルト国の軍勢が集結している。こうして、アルナス・ウルスは汗国、オステア、ハルト、ラザムの四カ国に狙われることとなる。アルナス・ウルスには外交のパイプもなく国際的に孤立している。そして、これまでの戦いで彼らの弱さは証明済みである。包囲網を築いた国と一対一でもアルナス・ウルスでは勝ち目は薄い。弱い敵から潰す。弱いから狙われたのである。 「おいおい、さすがにそりゃあ急ぎすぎじゃねぇのか。まだ負けと決まったわけじゃあ……」 「どうかのぅ。かつて倒したアルナス汗国にすら遅れをとっているようなこの軍にできることはたかが知れておるがのう」 「抜け目ないアルナスの土侯どもは生き残る算段をしてる。そいつぁ、スネアの首をナルディアに差し出すこと、だ」 ジオムは外を見た。アルナス兵たちが忙しく動いているが、逃げようとしたり、あるいはスネアの首を取るために忙しく動いているようだ。外の空気は、幕舎の中よりも淀み、荒みきっていた。これは、負ける。そう彼の勘が言っている。雇い主が支払い能力を失えば、傭兵が雇い主を見捨てるのは常識。ジオムはやりきれない表情のまま武具を身に纏うと、幕舎の外に飛び出した。つい先ほどまで味方だったアルナス兵たちを蹴散らして血路を拓く。アルナス兵たちもジオムらを本気になって止める義理もない。抵抗らしい抵抗もなく、道を開けた。 スネアは土侯たちがそれぞれの手勢を率いて不穏な動きをしているのを察知していた。既に、彼に従うのは数えるほどの「蛇の部族」の子飼いの部下たちと謎の男、フリンクのみであった。 「そういや、デッドライトとかぬかすあの女はどこにいったんだ」 「さぁな……」 「ある時を境に、あんたの牙――戦略眼が鈍った。それからというもの、俺たちの軍は失敗つづきの負け続けだ。ちょうど、あの女はいなくなった頃だったような気がするんだが。そう思うのは俺だけか?」 このフリンクという男は、洞察力が鋭い。スネアは珍しく、己の知ることを包み隠さず語った。 「あの女はな、私を覇者とするため導くなどとぬかしつつ、私を利用していたのだ。ラザムを攻撃するためにな。だが、私の力では光の賢者や神剣の主を殺せないと見るや、すぐに私に見切りをつけた。私も最初から、あの女を出し抜いてやるつもりであった。利用されるふりをしてな。だが、結果は見ての通りだ。私は、覇者の器ではなかったということだ」 「俺が聞いてるのはそんなことじゃねぇ。あんたのせいで、蛇の部族はお先真っ暗だ。ナルディアの小娘は蛇の部族を一人足りとて生かしちゃあおかんだろう。あんたが分不相応な野心を起こして勝手に野垂れ死ぬのはいい。だが、こいつらまで巻き添えにするな!」 フリンクの出自は不明である。この場でも、彼の出自は明らかにはならなかった。だが、彼は、今滅びようとしている蛇の部族のことを他人事ではないように語る。それは、彼らの姿をかつての自分と重ね合わせているかのようでもあった。無言のまま、いくつもの弓が引き絞られる。狙いはスネアただひとり。もう、彼の味方はこの世にひとりもいなかったのである。「毒蛇の牙」が毒蛇自身を捉え、一斉に襲い掛かった。 スネアは眼前に展開したナルディア大汗の軍勢に目をやる。既に彼に抵抗する力はない。ナルディアは配下にスネアを捕縛するように伝える。各部族の長となる者は、幼少の頃から毒殺、暗殺に対する抵抗力をつけるために少しずつ毒を喰らい抵抗力をつける。蛇の部族の長ともなれば相当な強さの毒に耐えうる。皮肉にもその毒への抵抗力のついた体は、彼を救うことはなく、長く死までの苦しみを続かせるのみであった。 「報告。フリンクが蛇の部族の生き残りを率いて逃亡したとのこと。他の部族の土侯らは此度の反乱の責はすべてスネアにあるとして、大汗に恭順の意を示しております」 「土侯どもをこの場に引っ立てい!」 ドルナード、ルールーニ、エフォードら土侯たちがナルディアの前に引っ立てられた。彼らの前にはそれぞれひとつずつ、物々しい紋様をした大きな壺が置かれる。 「わらわへの忠誠を示すならばその壺に手を入れよ。生まれかわったアルナスに必要な者は生き残るであろう」 「し、しかし、大汗。我らは脅されて……」「レグリス!」 見苦しい弁解をしようとしたドルナードの舌が切り落とされる。血を吐き散らし、のた打ち回ったのち、彼は動かなくなった。 「なにも、ナルディア様はあなたがた部族を皆殺しにするとは申しておりません。ですが、仮にも反乱があり、大汗が流浪の身になるという事態に到ったのです。多くの同朋たちが死にました。あなたがたの叛意の有無に関わらず、部族の長として責任をとる必要はおありでしょう?」 「……わかった。このルールーニの死に様、我が部族の者達に伝えられよ」 ルールーニは意を決して手を壺の中に入れる。彼の肌の色は、みるみるうちに青ざめ、黒ずんでいく。口元から黒く変色した血が溢れる。つぼの中になにが入っていたのか想像に難くない。ルールーニはそれでも表情を変えず、声ひとつ漏らさずに死ぬまで苦しみに耐えた。 エフォードもまた、それに倣うと決め、壺に手を入れる。だが、エフォードが死ぬことはなかった。壷の中は空であった。ナルディアははじめからエフォードを赦すつもりであったのである。 縄目についたままスネアは三名の土侯への裁きの様を見届けていた。恐らく、ルールーニを殺した毒は自分に使われたものと同じもの。そして、自分が受けた毒の量はルールーニの受けた量の数倍。なのに、自分は未だに生きている。 「……ああ、そうか」 それまで終始無言であった男はなにかを悟ったかのように口を開いた。全身に猛毒の矢を受け、生きているのが不思議なほどである。その場にいた汗国の全員がスネアに注目する。その声は小さく、死に際の一言であるのがうかがえる。 「……ナルディアよ。……此度の勝利は貴様の力ではない……ぞ。……だが、貴様は勝利……した。……私という悪は滅び去る……アルナス……繁栄………貴様次第……」 最期の力で、スネアは顔を上げる。彼の眼に映ったのは、かつての傲慢で浅はかな少女ではなかった。多くの死や悲しみ、挫折を乗り越えたナルディアは美しく強い大狼となっていた。スネアは最期の言葉を紡いだ。 「……毒蛇は……頭を潰せ……」 カリンが一振りの曲刀を持ち、ナルディアの前に差し出す。 「ナルディア様」 「……うむ」 ナルディアはスネアに止めを刺す。振り下ろされた切っ先は優美な曲線を描き、抵抗なくスネアの首を落とした。毒で変色した黒い血が噴き出すかと思いきや、出てきたのは赤い血であった。胴体から離れたスネアの首はなぜか安らかな表情をしていた。 それから後、ナルディアはアルナス国内を平定して廻った。保守派の勢力は国内にしぶとく生き残り、大汗軍に抵抗した。それらに対し、ナルディアは、容赦ない殲滅指令を下す。それに震え上がった諸侯からは、次第に反乱のきざしはなくなっていった。平原への移住政策は取りやめた。そもそも、対外進出自体を取りやめ、国内を安定させることに専心した。 エフォードは、大汗からの支持を得て、主に交易による収入源確保に貢献した。彼はラザムとの交渉役としても重要な人物であった。アルナス・ウルスにいる時には閉めていたコーヒーハウスも再開した。彼のコーヒーハウスにはラザム、アルナスのみならず大陸から様々な人々が訪れた。比較的気候の穏やかなホラガス地区にコーヒー農園を作った。老後はそこでのんびりと隠居したいのだという。 グリンジャは、少数の手勢を率いて砂漠を駆け回っていた。アルナス砂漠の覇権がナルディアの手に戻ったとはいえ、隊商を襲う賊は存在する。彼女は隊商の護衛の任についた。一部族の長ともあろうものが、そんな傭兵まがいのことを、と余人は言うだろう。だが、彼女は気にしない。そもそも、彼女には一部族の長という地位などどうでもよかったのだ。グリンジャは砂漠での行軍の天才であった。その才は平時にも発揮される。彼女は砂嵐や極端な気温の上昇を事前に察知した。水場の位置を把握し、また、新たに水場を発見する。賊が隊商を襲いやすい地形も把握していた。多少廻り道になっても安全な道をとった。こういったことは、砂漠の案内人としては常識ともいえる地味な働きではあったが、これだけのことを一人でやってみせるのは砂漠広しと言えどそうはいない。さらに、賊を一瞬で追い払う剣の冴えをも持つのは彼女を於いて他にいないであろう。彼女によって無事に届けられた人と物資は数知れず。 「砂漠の旅は長く辛い。そう思っていたが、グリンジャはそこから苦と難を除き、風に流す。乾風と日差しに眼を細めて、砂漠とは自然の驚異であるかな、などと詠もうとした頃には、風はそよ風に変わっていた。グリンジャに守られての砂漠越えはアルナスの風に運ばれてきたような心地であった」 このように、とある商人は語る。 盗賊たちを自力で捕らえ、改心させている僧侶の噂があった。なんでも、その僧侶は素手でモンスターをも殴り倒すほどの怪力なのだそうだ。こんな噂をしていると、チックニアがやって来るという。チックニアは孤児たちを保護し、怪我人・病人を格安で診て、さらには盗賊退治まで一人でやってのけた。盗賊、僧侶、一般人、アルナスの戦士たちそのいずれにも分け隔てなく慈愛の心で接する聖女。だが、彼女に逆らうと容赦ない鉄拳が飛んでくるという。 レグリスはナルディアのもとを離れた。出奔ではない。風のように自由に生きるのが彼の性分だ。また気まぐれでふらっとこの地を立ち寄るかもしれない。だが、ナルディアが窮地に立たされると、どこからか風車が飛んできて彼女を救ったという。もしかしたら、わりと近くにいるのかもしれない。 カリンはナルディアを軍政両面でよく補佐した。戦場に出ることはめっきり減り、軍編成の兵站面での管理をする。彼女は真の意味で名臣であったといえよう。彼女は、中原などで行われている先進的な制度を仕入れてきては、ナルディアとともによく検討した。アルナスの地にその制度を導入するのになにか不都合はないか。彼女たちが過去の失敗から学んだことである。苦慮の末に実施された新法、新制度がアルナスに則したものでなかった場合はその修正案を考え、場合によっては思い切って取りやめにした。国を治めるということはこれほどにも大変なことか、と彼女たちは改めて痛感した。いくつもの失敗を乗り越えて、数々の新制度にアルナス式のアレンジが加えられたものが編み出される。そのカリン・ナルディア考案の法・制度は今度は中原に向けて輸出された。 砂漠一の極悪人 そいつは毒蛇 その名もスネア 人をだまして宝を盗み 人をだまして噛み殺す 悪い悪い毒蛇は 偉大な狼に捕まった 頭を潰せ 頭を潰せ 毒蛇の頭潰しちゃえ 悪い悪い毒蛇は 頭を潰され死んじゃった これで安心 もう安心 我らを守る大狼 ナルディア大汗万々歳 城下で旅芸人が歌った歌である。既にナルディアとスネアの戦いは物語として子供らにも語られている。この歌で語られるのは英雄の勇姿と裏切り者の末路である。 ナルディアはアルナスの本城のバルコニーに建つ。ここは見晴らしがよく、城下を一望できる。ナルディアはかつて、アルナスを取るに足らないつまらない土地と思っていた。中原の豊かさ、中原の進んだ文化を奪い取り、自分が大陸を支配すれば誰も逆らわないと本気で信じていた。先王もまた、ブレア侵攻を悲願としていたため、自分の考えに疑問を抱くこともなかった。だが、いざブレア制圧を果たしてみれば、あのようなこととなった。ナルディアは足元に少しだけ積もっていた砂をすくい取る。幼少の頃から見飽きるほどに見てきた砂。彼女はこれをかつて忌まわしいと思っていたが、今ではいとおしく思える。アルナスの民はここで生きていけばいい。今は、胸を張ってそう言える。 以後、ナルディア大汗はアルナス史上、最も長く安定した王朝を築いた人物として歴史に名を残す。そして、その宿敵であった「アルナスの毒蛇」は最も残忍で狡猾な悪役として語り継がれる。多くの同朋を死に追いやった大罪人。裏切りの連続で諸国を混乱のどん底に陥れた極悪人。などと、人は彼を呼ぶ。それもまた真実。だが、スネアという悪が現れ、苦難の末にナルディアたちがこれを倒したからこそ、アルナスの人々はひとつになれたのである。一説によると、スネアは死ぬ間際に悟ったのだという。自分が、アルナスに平和をもたらす為の生贄になったということに。彼は全てを失った上で殺され、死後も蔑まれ続ける。彼は全てとはまではいかないまでも、多くの人々の憎しみを一身に受け、罪を背負って死んでいった。毒に蝕まれつつも、最期にあの言葉を残せたのも、そう思えばこそではなかろうか。彼の穏やかな最期の表情の理由もそう受け止められなくもない。――そんな考えがナルディアの脳裏をよぎった。だが、彼を祭り上げることなどできない。ならば、悪として語り継ごう。それを彼も望んでいるかもしれない。称えよ、ナルディア大汗とその功臣を。忘れるな、アルナスの毒蛇・スネアを。 ---- - かなり長いけど、まあよめたので、なかなか秀逸だと思います。 -- 名無しさん (2011-02-06 01:19:06) - 素晴らしい! -- 名無しさん (2011-04-01 09:53:35) - うーむ、勧善懲悪では飽き足らないうるさい客だから批判的に見ちゃうけど、好きな人はおおいんじゃない。 -- 名無しさん (2011-04-02 14:46:29) - ドルナードのキャラが今と違うな &br()しかし面白いssだ -- 名無しさん (2023-06-29 00:42:58) #comment(size=60,vsize=3) ----

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