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生きる屍―桜という代名詞」(2008/01/04 (金) 14:23:31) の最新版変更点

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&br()  心地よい風の中を桜が散る。  ああ。その美しい花弁の色は、美しい血から成るものなのか。 「桜ももう終りだな」 「……」  部屋の窓からは、青い葉がちらほらと生えている桜が見える。一週間前にやっと満開になったと思ったらもう葉が生え始めていたのだ。全く、どうして桜はすぐに散ってしまうのだろうか。こうも早く見時を終えてしまうのが分かっていたなら写真か何かにその姿を留めておくべきだった。俺が小さく後悔のため息を吐くと隣に座り込んでいた兄者がピクリと反応してこちらを見る。 「なんでもない。心配しないで」  俺がそう声をかけてやると兄者はホッと胸を撫で下ろした。俺の吐いたため息の原因が自分に無いと分かったからだろう。俺は持っていた本に再び目を落とした。今俺が読んでいるこの話には桜を中心として物語が展開されている。しかも中心となっている桜はただの桜ではないのだ。 『血桜』。よくホラー系の話に取り上げられる桜にまつわる言い伝えだ。桜の木の下には人柱が埋められていて、桜はその生き血をすすって綺麗な花を咲かせる、と。誰が考えたんだろうなぁと内心感心しながら、丁度良いところでしおりを挟んで机に置く。 大分部屋の中に空気が篭ってしまったようなので空気を入れ替えるために窓を開ける。やはり春の風はいい。すがすがしくて、さっぱりしていて、そしてなによりも温かい。俺が思っていたよりも意外に強かった風は桜の細い枝々をいとも容易くしならせる。何かに取り憑かれたようにぼーっと桜を眺めていると、兄者の居るであろう隣から何か遠慮気につつかれた。 「どうした?」  俺がにっこり笑いながら問いかけると兄者は口パクでたった三文字を俺に伝えた。兄者が、一体何が言いたかったのか良く分からなかったが、もう一度というのは何故か気がひける。俺が止まっている理由が分かったのか兄者は桜を指差した。そしてさっきとは違う三文字を口パク。 『ほしい』  ああ、そういう事か。俺は小さく笑みを浮かべて頷いてやり、近くにあったなるべく太い枝をへし折った。それを兄者に差し出すと兄者は大事に受取ってベッドに座り込む。ギィ、とベッドのスプリングが軋む。 「懐かしい匂いがするな……」  俺の呟いた言葉に兄者はコクリと頷いた。未だに閉じている蕾をやさしく撫でたり皺がよってしまっている花弁には皺を伸ばすような撫をしたり。 「……でも、どうして懐かしいんだろうな」  兄者はゆっくり知らないと首を振った。その答えに俺は再び笑みを浮かべてそうか、と小さく声を漏らす。俺は答えを知っていたが兄者に問いかけたのはあることを確かめるためだ。もし、ここで兄者が首を縦に振ったらもう一度――あの日からの記憶や思い出の全て排除、および削除をやり直さなければならなくなっていたところだ。あんなこと二度とやるのはごめんだが、互いがこの裏世界で生きてゆくためにはどうしても避けられない道なのだ。   再び桜に視線を向けているとまた足をつつかれた。視線を兄者の方に向ければ先ほど折った桜の枝を俺に差し出して『もどす』、と口パクする。戻す? 俺は意味が分からず眉間に皺を寄せていると、兄者が痺れを切らしたかそっと俺を押しのけた。そして兄者は落ちないように窓枠に手をかけて近くの桜の枝に手を伸ばす。兄者の背は俺よりも二十センチ近く低いし、さらに俺でも近くの枝には若干背伸びしないと届かなかった。桜の枝に彼の手が届く事は決してないのが分かる。  俺は兄者の手を部屋に引っ込め、静かに窓を閉めた。空けられないように素早く鍵を閉める。彼の記憶を抹消したと共に、生きる上で必要な基礎知識も幾分か消えてしまったのだ。俺のミスで。そんな、当たり前のことが分からない彼の行動を見ていると、まるで自分が責められているような錯覚を覚える。ただ、彼が言葉を理解し、その上で使いこなせているのには――話すことが出来ないので口パクだが――、どんなに原因を考えても首を傾げるばかりだった。  窓を閉められた事に機嫌を損ねたのか兄者はむすっと口を尖らせ俺を睨んだ。俺は苦笑いして椅子に座りなおす。兄者の視線は見て見ぬフリをして目をつむる。このまま闇に身を任せてしまえばそのまま眠ってしまいそうだった。 「ギーッ」  傍から歯車が軋むような兄者の唸り声が聞こえる。俺は小さく息を吐いてゆっくり目を開けた。兄者を怒らせて暴走させてしまうと後々大変な事になってしまう。大方、彼が唸る時は納得がいかない時か、機嫌が悪い時なのだ。今の場合は両方なのだろうが。 「……ごめん、寒かったんだ」 「・・・キッ」  口を尖らせたままふん、と顔が逸らされる。俺は小さくため息を吐いて額に手を当てた。どうやって彼の機嫌を取り戻そうか。誰でも、一度損ねると元に戻すのは大変だ。 そう苦笑いしていると部屋のドアが勢いよく開かれた。勿論の事、俺らの視線はほぼ同時にそこに注がれる。 「なんだ、アヒャか……」  アヒャを見たとたん兄者の鋭い視線は柔らかいにへと変わった。アヒャは自分に害を及ぼす敵ではない、そう判断したからだ。 「ナンダトハナンダ。弟者、オ前ニ客ダ」  アヒャは少し頬を膨らませて用件を伝える。兄者はまだあの枝を持ちながらじっとアヒャの方を見ていた。 「パット見、外見ハギコ族ノタカラ種。笑顔ガウザッタラシイガ、マァ頑張レ」 「そうか、ありがとう」  アヒャは頼んでもいないのに、客が来たことを毎回知らせてくれる。彼も仕事があるはずなのにだ。それだけ客が来なくて暇だと言う事なのだろうか。でも会話では俺もアヒャもそれには触れない。俺らの仕事は客――依頼主がいないと成り立たないのだ。  俺は椅子から立ち上がって兄者に短く声をかける。兄者は一度だけ頷いて先に部屋から出て行こうとするが、アヒャとのすれ違い様に何か囁かれたのか兄者はアヒャの喉に爪を食い込ませた。その光景に俺は一瞬目を見開くが、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。 「非常に運が悪いことに、今兄者は機嫌が悪い。恨むならからかうタイミングを間違えた自分を恨め」 「ソノ前ニッ、助ケネェオ前ヲ恨……グェッ」 「よし、兄者そのまま絞めろ。それか首をもいでもいい」  俺の言葉にアヒャは顔を真っ青にするが、一方の兄者はにっかり笑って両手をアヒャの首に添えた。この状況でよくあんな事を言えたもんだ。いろんな意味でアヒャ性格が羨ましい。 「マ、待テッ! アギッ! 痛イッ!」  苦しさにアヒャは必死にもがくが、兄者はそれをもろともせずに彼の首に爪を立て続ける。勿論加減はされている。兄者が本気で絞め殺そうとしていたなら、それは秒単位で終わっているのだから。いや、絞め殺すと言うよりは首を握りつぶして胴体から切り離してしまうのだが……。 「さぁ、謝るんだ。兄者と俺の機嫌を損ねた事。ついでに客を待たせた事を」  兄者はともかく俺が機嫌を損ねているのは全くの嘘だ。俺が機嫌を損ねられるタイミングなんてどこにもなかったし。だから面白くないのだ。面白いから彼をからかっているだけである。 「ゴメンッ! スミマセンッ! 私メガ悪ゥゴザイマシタッ!」 「よし、手を離せ」  俺が言ったのとほぼ同時に兄者の手がアヒャの首から離された。足に力が入らないのか、アヒャはそのまま床に崩れ落ち深呼吸をして呼吸を整えている。丁寧な事に、兄者はアヒャの首を見て大事に至っていないかを確認する。大丈夫、痣が見える程度だ。そう声をかけてやれば不安げだった表情が一気に明るくなった。 「兄者が何者なのか知っているくせに、自業自得だな」  いつもより少し低い声でアヒャに言う。誰かをからかうときは自然とそうなってしまうのだが、今のはいつも以上に低くしてみた。その所為か、アヒャの体がぴく、と反応した。  部屋に鍵をかけてアヒャに差し出す。アヒャは警戒しながらもゆっくりと立ち上がり、鍵をおそるおそる受取る。その時に俺は、兄者はなんでしょう、と分かりきった事を聞いてみた。答えはすぐに返ってきた。そりゃそうだ、考える必要がないのだから。 「機械仕掛ケノ屍サン。更ニ言エバ兄弟ソロッテ、殺シ屋デス」 「正解。それを頭に叩き込んでおくんだな。んじゃ、行くぞ兄者」  アヒャの言う事は間違いではない。兄者は機械仕掛けの屍だし―声を上手く発せないのはこの為だ―、俺らはそろって殺し屋だ。  俺の呼びかけに兄者は頷くが、ふりむいてアヒャを上目で見つめる――身長の差の為、自然にこうなってしまう。そしてニヤリと浮かべた笑みを見て、また何かされると思ったのかアヒャの表情が歪んだ。  俺はそれに構わずに一階のバーに通じる階段を下りていった。後ろを慌てて兄者がついてくる。  バーにはそれぞれの仕事の為の接客室がある。バーはただの裏の仕事を隠す為のカモフラージュに過ぎなく、裏の仕事は「殺し」、「護衛」、「情報」、「捜しもの」の四つで構成されている。そしてその中の「殺し」に入るのが、俺たちと言うわけだ。まぁ、怪しまれないためにバーは本当に運営されているが……。  今日はどういう訳か客が少ないな。そのことに内心びっくりしながらも、俺たちは接客室の戸を開けた。  + + + 「ご指名ありがとうございます」  先ほどとは全く違う弟者の態度の豹変振りにオレはうっすらと苦笑いを浮かべた。何度も何度も見た光景だが、やはりこのギャップの変化にはついていけない。――弟者は、仕事になるとやたら丁寧な口調になる。残念ながら、歪んだ性格はそのままでだ。とりあえず弟者と共にオレは軽く一礼して客の向かいの席に座った。  この部屋は大分狭い。部屋の中心にバーの丸机を置いてしまった為だろうか、大分窮屈に感じてしまう。しかも左側には少し出っ張ったスペースがあるのだが、そこを埋めるようにしてダンボールが山済みにされている為なおさら狭く感じてしまう。  そしてオレらの直後ろにはこの部屋唯一の出入り口がある。これは客に直に逃げられないようにする為だ。客によっては途中で心変わりして部屋を出て行くことがある。これによって一件分の仕事を失うわけだが、それはそれで構わない。しかし問題なのは口がやたらと柔らかい――いわゆる秘密を守れない輩共だ。ここの存在は一応仕事が仕事な為沢山の人々に知られてはまずい。だから客を出入り口から遠ざける事によりさり気なく威圧感を与える事も出来るのだ。実際、この案はアヒャが提案したのだが、やってみると客が以前よりも減ったのだ。……これは喜ばしいことなのだろう。きっと。多分。  目の前に座っていた客は、ずっと笑みを浮かべている。オレは何もする事がないのでじっと客を見ていた。 「殺し科を担当しています、流石と申します。で、こちらは屍の『兄者』」  軽く頭を下げる。 「屍ですか……。屍と言うとアレですよね、違法の」 「ご用件はなんでしょうか」  弟者が怖い程の不気味な笑みを浮かべながら客の言葉を遮る。客もずっと笑みを絶やさない為かなり不気味だが、それに並んでしまいそうな程だった。客は何とも言えないような顔をするが、しばらく黙り込んでそして口を開く。 「ヤツを……」  低く、はっきりとその声は部屋に響いた。弟者の目がすっと細くなる。そしてその浮かべている笑みも、まるで獲物を見つけた肉食獣のようだ。 「して、そのヤツとは、いったいどちらの方で?」  さて、これから取引が始まる。オレは目の前にずっと閉じていたパソコンを開いて立ち上がらせた。取引の内容は忘れぬようにパソコンに打ち込んでおかなければならない。  まぁどういうわけかオレはタイピングが弟者よりも早くてタイプミスも少ない。その事が分かるまではずっと弟者が取引と平行に行いながらパソコンに打ち込んでいたのだが、皮肉にも弟者は一つの物事にしか集中できないタイプなのでダメ元でオレにやらせてみたところ意外に出来たという――それ以来弟者はタイピングの練習に励んでいるのだが一向に上達する様子はない。  オレは客のほうをちらちらと見ながら片手をキーボードに置いた。そして片手は机の下の盗聴器に忍ばせ電源を入れた。 客は、伏せていた顔を上げるとごくりとつばを飲んでおずおずと口を開く。 「い、いな、稲辺を……」  しかし客はそこで黙り込んでしまった。オレは「いなべ」とだけパソコンに打ち込む。漢字変換は後々にすればいいことだ。暫く訪れた沈黙に、弟者がどうしたものかと客に問いかけた。 「イナベとは……誰、でしょうか」 「えっと……、……」  弟者がめんどくさそうに眉をひそめる。どうやらこの客はまだ心のどこかで迷いがあるらしい。オレ自身が取引自体に口を出す事は出来ないので、暇つぶしに「いなべ」と打ち込まれた下に二行分くらいスペースを空けて適当に文字を打ち込む事にした。しかしそれは弟者に睨まれて、直消す事になってしまったが。 「友人、です」  ふいに客が言ったのではっとして顔を上げる。どうしよう、聞き逃してしまった。客はあの笑みをまだ浮かべていた。きょろきょろと回りを伺うオレの様子を見てどう思ったのか、弟者が耳元で「友人」と囁いた。慌ててそれを打ち込む。 「出来れば、その友人の住所を教えていただきたいのですが……ご存知ですか」  弟者のその問いに、客はゆっくりかぶりをふった。さっそく、住所は不明とパソコンに打ち込む。弟者は、何か考え事をしているのか小さく唸りながら目を瞑っていた。  住所が分からないのなら調べればいい。しかし問題はここからの距離だ。ここら付近の県なら、まだ問題はない。少し遠出をすればいい話。しかし遠い県ならわざわざそこまで出向いていかなくてはならないし、周辺の県をその獲物が通るまで待つわけにもいかない。それに、それなりの作戦も考えなければいけないし……。 「あ。確かY県でした……」  ああ、もうまた聞き逃しちゃったじゃないか。いや、だいたい客の声が小さすぎるのだ。ギコ族のくせに。ギコ族のくせに。かたかたとむちゃくちゃな文字の羅列を打ち込んでいるオレを見たのか、弟者が小さくため息をついた。 「Y県だよ、兄者」  オレは唇を少し尖らせながら「Y県」とパソコンに打ち込んだ。  隣では、ニヤリと似つかわしい笑みを浮かべた弟者が客との交渉を立てている。その間、オレはやる事が無くてずっとうつむいていた。そういえば、さっきまで持っていた桜の枝はどこに置いただろうか。確か、アヒャに襲い掛かるまでは持っていた覚えがある……。  桜の枝をもぎ取った時、弟者はオレに問うた。いや、アレは呟きだったのかもしれない。何故、懐かしいのかと。  日本の春には花弁染井吉野や、八重桜という種類の桜が花を咲かせるそうだ。冬真っ只中、仕事を終えて一息ついている時に弟者が呟いていた。オレの予想でここの店に生えている桜は五枚の花びらなので、きっと染井吉野なのだろう。それなのに何故、他の桜を見ても、弟者の言う「懐かしい」という感覚に襲われないのか。深く考えようとすると、これ以上探ってはいけないというように頭に頭痛が走る。頭の中で何かがきしんでギーギーと、鈍い音を立てるのだ。思い出してはいけない、探ってはいけない。知ってしまってもいけない。……――本来『屍』に存在しない思考。どうして『屍』であるはずのオレには思考が存在するのか。否、存在してしまったのか。  少し顔を上がると弟者はまだ何か悩んでいるようで、客と話し込んでいた。一方の客はオレの事が気になるのかときおりちらちらと視線をこちら送っている。オレはまた顔を伏せた。  『屍』。それは、表世界では違法とされ、存在すら許されない命だ。  時代が進めば、ある程度科学や技術も進歩してくる。すると臓器移植もドナーがいなくても機械が代わりに補えるようになってきたのだ。まだ臓器の一つや二つ、その代わりとなる機械を入れても人体にはなんら影響は無い。が、三つ四つ、あるいは全てとなってくると人体に害を催すことになり、違法となってしまう。ただ、それを死んだ人間――死体に使用したらどうなるか。  その人間は機械として、再び生を受ける事ができる。そういうわけだ。  ただ、コレだけでは終わらない。今度は人間でいう皮膚が必要になってくるのだ。……生憎、オレはここまでしか知らない。弟者なら、もっと深く知っているのだろうが本人はその話の類を極力嫌っている為なかなか聞きだすことも出来ない。オレは小さく息を吐いた。すると突然弟者が何かを決めたかのように「よしっ」と呟く。 「一ヶ月。否、二週間以内で終わらせます。……いいですか」 「……ありがとうございます」  弟者の言葉に、客は何度も頭を下げていた。  [[TOP]]  [[生ける屍TOP>生ける屍]]  >> 染井吉野は日本でもよく見られる五枚の花びらの桜です・・・。 八重桜は運動会とかで応援団が使ってるあのビニルの「ふわふわ」に似てるらしいですが……見てみたいなぁ・・・。
&br()  心地よい風の中を桜が散る。  ああ。その美しい花弁の色は、美しい血から成るものなのか。 「桜ももう終りだな」 「……」  部屋の窓からは、青い葉がちらほらと生えている桜が見える。一週間前にやっと満開になったと思ったらもう葉が生え始めていたのだ。全く、どうして桜はすぐに散ってしまうのだろうか。こうも早く見時を終えてしまうのが分かっていたなら写真か何かにその姿を留めておくべきだった。俺が小さく後悔のため息を吐くと隣に座り込んでいた兄者がピクリと反応してこちらを見る。 「なんでもない。心配しないで」  俺がそう声をかけてやると兄者はホッと胸を撫で下ろした。俺の吐いたため息の原因が自分に無いと分かったからだろう。俺は持っていた本に再び目を落とした。今俺が読んでいるこの話には桜を中心として物語が展開されている。しかも中心となっている桜はただの桜ではないのだ。 『血桜』。よくホラー系の話に取り上げられる桜にまつわる言い伝えだ。桜の木の下には人柱が埋められていて、桜はその生き血をすすって綺麗な花を咲かせる、と。誰が考えたんだろうなぁと内心感心しながら、丁度良いところでしおりを挟んで机に置く。 大分部屋の中に空気が篭ってしまったようなので空気を入れ替えるために窓を開ける。やはり春の風はいい。すがすがしくて、さっぱりしていて、そしてなによりも温かい。俺が思っていたよりも意外に強かった風は桜の細い枝々をいとも容易くしならせる。何かに取り憑かれたようにぼーっと桜を眺めていると、兄者の居るであろう隣から何か遠慮気につつかれた。 「どうした?」  俺がにっこり笑いながら問いかけると兄者は口パクでたった三文字を俺に伝えた。兄者が、一体何が言いたかったのか良く分からなかったが、もう一度というのは何故か気がひける。俺が止まっている理由が分かったのか兄者は桜を指差した。そしてさっきとは違う三文字を口パク。 『ほしい』  ああ、そういう事か。俺は小さく笑みを浮かべて頷いてやり、近くにあったなるべく太い枝をへし折った。それを兄者に差し出すと兄者は大事に受取ってベッドに座り込む。ギィ、とベッドのスプリングが軋む。 「懐かしい匂いがするな……」  俺の呟いた言葉に兄者はコクリと頷いた。未だに閉じている蕾をやさしく撫でたり皺がよってしまっている花弁には皺を伸ばすような撫をしたり。 「……でも、どうして懐かしいんだろうな」  兄者はゆっくり知らないと首を振った。その答えに俺は再び笑みを浮かべてそうか、と小さく声を漏らす。俺は答えを知っていたが兄者に問いかけたのはあることを確かめるためだ。もし、ここで兄者が首を縦に振ったらもう一度――あの日からの記憶や思い出の全て排除、および削除をやり直さなければならなくなっていたところだ。あんなこと二度とやるのはごめんだが、互いがこの裏世界で生きてゆくためにはどうしても避けられない道なのだ。   再び桜に視線を向けているとまた足をつつかれた。視線を兄者の方に向ければ先ほど折った桜の枝を俺に差し出して『もどす』、と口パクする。戻す? 俺は意味が分からず眉間に皺を寄せていると、兄者が痺れを切らしたかそっと俺を押しのけた。そして兄者は落ちないように窓枠に手をかけて近くの桜の枝に手を伸ばす。兄者の背は俺よりも十センチ近く低いし、さらに俺でも近くの枝には若干背伸びしないと届かなかった。桜の枝に彼の手が届く事は決してないのが分かる。  俺は兄者の手を部屋に引っ込め、静かに窓を閉めた。空けられないように素早く鍵を閉める。彼の記憶を抹消したと共に、生きる上で必要な基礎知識も幾分か消えてしまったのだ。俺のミスで。そんな、当たり前のことが分からない彼の行動を見ていると、まるで自分が責められているような錯覚を覚える。ただ、彼が言葉を理解し、その上で使いこなせているのには――話すことが出来ないので口パクだが――、どんなに原因を考えても首を傾げるばかりだった。  窓を閉められた事に機嫌を損ねたのか兄者はむすっと口を尖らせ俺を睨んだ。俺は苦笑いして椅子に座りなおす。兄者の視線は見て見ぬフリをして目をつむる。このまま闇に身を任せてしまえばそのまま眠ってしまいそうだった。 「ギーッ」  傍から歯車が軋むような兄者の唸り声が聞こえる。俺は小さく息を吐いてゆっくり目を開けた。兄者を怒らせて暴走させてしまうと後々大変な事になってしまう。大方、彼が唸る時は納得がいかない時か、機嫌が悪い時なのだ。今の場合は両方なのだろうが。 「……ごめん、寒かったんだ」 「・・・キッ」  口を尖らせたままふん、と顔が逸らされる。俺は小さくため息を吐いて額に手を当てた。どうやって彼の機嫌を取り戻そうか。誰でも、一度損ねると元に戻すのは大変だ。 そう苦笑いしていると部屋のドアが勢いよく開かれた。勿論の事、俺らの視線はほぼ同時にそこに注がれる。 「なんだ、アヒャか……」  アヒャを見たとたん兄者の鋭い視線は柔らかいにへと変わった。アヒャは自分に害を及ぼす敵ではない、そう判断したからだ。 「ナンダトハナンダ。弟者、オ前ニ客ダ」  アヒャは少し頬を膨らませて用件を伝える。兄者はまだあの枝を持ちながらじっとアヒャの方を見ていた。 「パット見、外見ハギコ族ノタカラ種。笑顔ガウザッタラシイガ、マァ頑張レ」 「そうか、ありがとう」  アヒャは頼んでもいないのに、客が来たことを毎回知らせてくれる。彼も仕事があるはずなのにだ。それだけ客が来なくて暇だと言う事なのだろうか。でも会話では俺もアヒャもそれには触れない。俺らの仕事は客――依頼主がいないと成り立たないのだ。  俺は椅子から立ち上がって兄者に短く声をかける。兄者は一度だけ頷いて先に部屋から出て行こうとするが、アヒャとのすれ違い様に何か囁かれたのか兄者はアヒャの喉に爪を食い込ませた。その光景に俺は一瞬目を見開くが、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。 「非常に運が悪いことに、今兄者は機嫌が悪い。恨むならからかうタイミングを間違えた自分を恨め」 「ソノ前ニッ、助ケネェオ前ヲ恨……グェッ」 「よし、兄者そのまま絞めろ。それか首をもいでもいい」  俺の言葉にアヒャは顔を真っ青にするが、一方の兄者はにっかり笑って両手をアヒャの首に添えた。この状況でよくあんな事を言えたもんだ。いろんな意味でアヒャ性格が羨ましい。 「マ、待テッ! アギッ! 痛イッ!」  苦しさにアヒャは必死にもがくが、兄者はそれをもろともせずに彼の首に爪を立て続ける。勿論加減はされている。兄者が本気で絞め殺そうとしていたなら、それは秒単位で終わっているのだから。いや、絞め殺すと言うよりは首を握りつぶして胴体から切り離してしまうのだが……。 「さぁ、謝るんだ。兄者と俺の機嫌を損ねた事。ついでに客を待たせた事を」  兄者はともかく俺が機嫌を損ねているのは全くの嘘だ。俺が機嫌を損ねられるタイミングなんてどこにもなかったし。だから面白くないのだ。面白いから彼をからかっているだけである。 「ゴメンッ! スミマセンッ! 私メガ悪ゥゴザイマシタッ!」 「よし、手を離せ」  俺が言ったのとほぼ同時に兄者の手がアヒャの首から離された。足に力が入らないのか、アヒャはそのまま床に崩れ落ち深呼吸をして呼吸を整えている。丁寧な事に、兄者はアヒャの首を見て大事に至っていないかを確認する。大丈夫、痣が見える程度だ。そう声をかけてやれば不安げだった表情が一気に明るくなった。 「兄者が何者なのか知っているくせに、自業自得だな」  いつもより少し低い声でアヒャに言う。誰かをからかうときは自然とそうなってしまうのだが、今のはいつも以上に低くしてみた。その所為か、アヒャの体がぴく、と反応した。  部屋に鍵をかけてアヒャに差し出す。アヒャは警戒しながらもゆっくりと立ち上がり、鍵をおそるおそる受取る。その時に俺は、兄者はなんでしょう、と分かりきった事を聞いてみた。答えはすぐに返ってきた。そりゃそうだ、考える必要がないのだから。 「機械仕掛ケノ屍サン。更ニ言エバ兄弟ソロッテ、殺シ屋デス」 「正解。それを頭に叩き込んでおくんだな。んじゃ、行くぞ兄者」  アヒャの言う事は間違いではない。兄者は機械仕掛けの屍だし―声を上手く発せないのはこの為だ―、俺らはそろって殺し屋だ。  俺の呼びかけに兄者は頷くが、ふりむいてアヒャを上目で見つめる――身長の差の為、自然にこうなってしまう。そしてニヤリと浮かべた笑みを見て、また何かされると思ったのかアヒャの表情が歪んだ。  俺はそれに構わずに一階のバーに通じる階段を下りていった。後ろを慌てて兄者がついてくる。  バーにはそれぞれの仕事の為の接客室がある。バーはただの裏の仕事を隠す為のカモフラージュに過ぎなく、裏の仕事は「殺し」、「護衛」、「情報」、「捜しもの」の四つで構成されている。そしてその中の「殺し」に入るのが、俺たちと言うわけだ。まぁ、怪しまれないためにバーは本当に運営されているが……。  今日はどういう訳か客が少ないな。そのことに内心びっくりしながらも、俺たちは接客室の戸を開けた。  + + + 「ご用名、ありがとうございます」  先ほどとは全く違う弟者の態度の豹変振りにオレはうっすらと苦笑いを浮かべた。何度も何度も見た光景だが、やはりこのギャップの変化にはついていけない。――弟者は、仕事になるとやたら丁寧な口調になる。残念ながら、歪んだ性格はそのままでだ。とりあえず弟者と共にオレは軽く一礼して客の向かいの席に座った。  この部屋は大分狭い。部屋の中心にバーの丸机を置いてしまった為だろうか、大分窮屈に感じてしまう。しかも左側には少し出っ張ったスペースがあるのだが、そこを埋めるようにしてダンボールが山済みにされている為なおさら狭く感じてしまう。  そしてオレらの直後ろにはこの部屋唯一の出入り口がある。これは客に直に逃げられないようにする為だ。客によっては途中で心変わりして部屋を出て行くことがある。これによって一件分の仕事を失うわけだが、それはそれで構わない。しかし問題なのは口がやたらと柔らかい――いわゆる秘密を守れない輩共だ。ここの存在は一応仕事が仕事な為沢山の人々に知られてはまずい。だから客を出入り口から遠ざける事によりさり気なく威圧感を与える事も出来るのだ。実際、この案はアヒャが提案したのだが、やってみると客が以前よりも減ったのだ。……これは喜ばしいことなのだろう。きっと。多分。  目の前に座っていた客は、ずっと笑みを浮かべている。オレは何もする事がないのでじっと客を見ていた。 「殺し科を担当しています、流石と申します。で、こちらは屍の『兄者』」  軽く頭を下げる。 「屍ですか……。屍と言うとアレですよね、違法の」 「ご用件はなんでしょうか」  弟者が怖い程の不気味な笑みを浮かべながら客の言葉を遮る。客もずっと笑みを絶やさない為かなり不気味だが、それに並んでしまいそうな程だった。客は何とも言えないような顔をするが、しばらく黙り込んでそして口を開く。 「ヤツを……」  低く、はっきりとその声は部屋に響いた。弟者の目がすっと細くなる。そしてその浮かべている笑みも、まるで獲物を見つけた肉食獣のようだ。 「して、そのヤツとは、いったいどちらの方で?」  さて、これから取引が始まる。オレは目の前にずっと閉じていたパソコンを開いて立ち上がらせた。取引の内容は忘れぬようにパソコンに打ち込んでおかなければならない。  まぁどういうわけかオレはタイピングが弟者よりも早くてタイプミスも少ない。その事が分かるまではずっと弟者が取引と平行に行いながらパソコンに打ち込んでいたのだが、皮肉にも弟者は一つの物事にしか集中できないタイプなのでダメ元でオレにやらせてみたところ意外に出来たという――それ以来弟者はタイピングの練習に励んでいるのだが一向に上達する様子はない。  オレは客のほうをちらちらと見ながら片手をキーボードに置いた。そして片手は机の下の盗聴器に忍ばせ電源を入れた。  客は、伏せていた顔を上げるとごくりとつばを飲んでおずおずと口を開く。 「い、いな、稲辺を……」  しかし客はそこで黙り込んでしまった。オレは「いなべ」とだけパソコンに打ち込む。漢字変換は後々にすればいいことだ。暫く訪れた沈黙に、弟者がどうしたものかと客に問いかけた。 「イナベとは……誰、でしょうか」 「えっと……、……」  弟者がめんどくさそうに眉をひそめる。どうやらこの客はまだ心のどこかで迷いがあるらしい。オレ自身が取引自体に口を出す事は出来ないので、暇つぶしに「いなべ」と打ち込まれた下に二行分くらいスペースを空けて適当に文字を打ち込む事にした。しかしそれは弟者に睨まれて、直消す事になってしまったが。 「友人、です」  ふいに客が言ったのではっとして顔を上げる。どうしよう、聞き逃してしまった。客はあの笑みをまだ浮かべていた。きょろきょろと回りを伺うオレの様子を見てどう思ったのか、弟者が耳元で「友人」と囁いた。慌ててそれを打ち込む。 「出来れば、その友人の住所を教えていただきたいのですが……ご存知ですか」  弟者のその問いに、客はゆっくりかぶりをふった。さっそく、住所は不明とパソコンに打ち込む。弟者は、何か考え事をしているのか小さく唸りながら目を瞑っていた。  住所が分からないのなら調べればいい。しかし問題はここからの距離だ。ここら付近の県なら、まだ問題はない。少し遠出をすればいい話。しかし遠い県ならわざわざそこまで出向いていかなくてはならないし、周辺の県をその獲物が通るまで待つわけにもいかない。それに、それなりの作戦も考えなければいけないし……。 「あ。確か……Y県」  ああ、もうまた聞き逃しちゃったじゃないか。いや、だいたい客の声が小さすぎるのだ。ギコ族のくせに。ギコ族のくせに。かたかたとむちゃくちゃな文字の羅列を打ち込んでいるオレを見たのか、弟者が小さくため息をついた。 「Y県だよ、兄者」  オレは唇を少し尖らせながら「Y県」とパソコンに打ち込んだ。  隣では、ニヤリと似つかわしい笑みを浮かべた弟者が客との交渉を立てている。その間、オレはやる事が無くてずっとうつむいていた。そういえば、さっきまで持っていた桜の枝はどこに置いただろうか。確か、アヒャに襲い掛かるまでは持っていた覚えがある……。  桜の枝をもぎ取った時、弟者はオレに問うた。いや、アレは呟きだったのかもしれない。何故、懐かしいのかと。  日本の春には染井吉野や、八重桜という種類の桜が花を咲かせるそうだ。冬真っ只中、仕事を終えて一息ついている時に弟者が呟いていた。オレの予想でここの店に生えている桜は五枚の花びらなので、きっと染井吉野なのだろう。それなのに何故、他の桜を見ても、弟者の言う「懐かしい」という感覚に襲われないのか。深く考えようとすると、これ以上探ってはいけないというように頭に頭痛が走る。頭の中で何かがきしんでギーギーと、鈍い音を立てるのだ。思い出してはいけない、探ってはいけない。知ってしまってもいけない。……――本来『屍』に存在しない思考。どうして『屍』であるはずのオレには思考が存在するのか。否、存在してしまったのか。  少し顔を上がると弟者はまだ何か悩んでいるようで、客と話し込んでいた。一方の客はオレの事が気になるのかときおりちらちらと視線をこちら送っている。オレはまた顔を伏せた。  『屍』。それは、表世界では違法とされ、存在すら許されない命だ。  時代が進めば、ある程度科学や技術も進歩してくる。すると臓器移植もドナーがいなくても機械が代わりに補えるようになってきたのだ。まだ臓器の一つや二つ、その代わりとなる機械を入れても人体にはなんら影響は無い。が、三つ四つ、あるいは全てとなってくると人体に害を催すことになり、違法となってしまう。ただ、それを死んだ人間――死体に使用したらどうなるか。  その人間は機械として、再び生を受ける事ができる。そういうわけだ。  ただ、コレだけでは終わらない。今度は人間でいう皮膚が必要になってくるのだ。……生憎、オレはここまでしか知らない。弟者なら、もっと深く知っているのだろうが本人はその話の類を極力嫌っている為なかなか聞きだすことも出来ない。オレは小さく息を吐いた。すると突然弟者が何かを決めたかのように「よしっ」と呟く。 「一ヶ月。否、二週間以内で終わらせます。……いいですか」 「……ありがとうございます」  弟者の言葉に、客は何度も頭を下げていた。  [[TOP]]  [[生ける屍TOP>生ける屍]]  >> 染井吉野は日本でもよく見られる五枚の花びらの桜です・・・。 八重桜は運動会とかで応援団が使ってるあのビニルの「ふわふわ」に似てるらしいですが……見てみたいなぁ・・・。

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