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   この世界は汚れてしまった。

「久しぶりの満月だね・・・」
  何年ぶりに見ただろうか、僕の求めていた綺麗な満月。
  満月さえ見れれば僕は良いんだ。まわりの星くずなんてどうでもいいんだ。

  でもメインは星くず。何億、何兆とあるゴミ。

『本日のプラネタリウムの公演は今回で終了いたします。足元の忘れ物にご注意ください。繰り返します。本日の・・・』

  もう、本当の空で月を見ることは出来ないんだ。


―『ド』 レ ミ ファ ソ ラ シ―

  今では誰も触らないピアノ。こいつを弾けるのは僕とお姉さんだけ。
  僕も昔習っていたけど、やめた。弾くたびに死んだお姉さんを思い出してしまうから。
  でも、久しぶりに弾いてみようかな・・・?

『ドー』
  低くも高くもない音が響く。僕だけにしか聴こえないように静かに響く。
  けど、少し音が悪いかな・・・。やっぱ何年も放置していたからかな。
  皆、ピアノしか弾けないお姉さんを思いだしたくなかったんだね。きっと。

  そして後片付け。寝ている家族に聞こえないようにゆっくりと。
  どうか起きませんように・・・。


  自分の部屋に戻り、携帯の待ち受け画面を開く。たまにメールが入っているときがあるからだ。
「今日は入ってないね・・・。よかった・・・」
  僕は携帯を左手に、大きなため息をついた。
  過去にメールの相手をしていて朝を迎えた事があったからだ。
  ようやく寝れると思えば着信。そしてまた着信。この繰り返し。
  僕の返信文は約五文。けど、あいつの返信文は約二文。たまに顔文字だけで帰ってくることもある。

『チャ チャラチャラチャラ チャ チャ』   
  携帯をたたもうとした時だった。弟がまた勝手に設定したのであろう『笑点』のテーマ曲が流れる。
  メールの受信音だ。
  慌てて受信したメールを開く。そのメールの送信者は他ならぬ、例のあいつからだった。
『いよぅ! モララー君! 今夜メールの相手してくれないか?』
  勘弁してくれ。僕は即座にそう思った。
  まだ馴染んでいない携帯を片手に、あたふたと返信メールを打つ。
『一分以内に理由を百字以上で述べてくれたら相手してやる。出来るかい? ギコ君』

  小さくため息をついて携帯をたたもうとした時だった。
  再びあの受信音が、部屋に鳴り響く。
「どんだけ早いんだよ・・・。あいつには他人を思いやる気持ちがないのかよ」
  そう呟きながらも、メールを開く。
  驚いた。
『…』が十一個。そして最後に『馬鹿』と。

  お前に言われたくねえよ。
  そう思いながら返信メールを打つ自分がいた。


「モララー、起きなさい。モララー」
  暗闇の中、母の声が聞こえた。
  しかし、優しいその声が鬼と化すのは、時間の問題だろう。
「モララー! いつまで寝ているつもりなの!? 今何時だと思ってるの!」
  突然聞こえた罵声に、僕は飛び起きた。
  そして時計に眼を向ける。

『八時十五分』
  なんだ、授業が始まるまで後四十五分もあるじゃないか。
  朝の会が始まるのも後十分もある。まだまだ時間があるじゃないか。
  飛び起きた体は、再び布団の中に倒れる。

  慌てて損した。
「大丈夫、大丈夫・・・。まだまだ時間があるから」
  小さく舌打ちが聞こえてきた。
  怒るとしわ、増えますぜ。
「何言ってんの!? 学校まで十五分かかるのよ!」
  学校まで・・・? そうか、ここは学校じゃないのか。
  まぁ、そうだな。参観日以外、学校に親が居るわけないし。
  と、言うことは、ここは家らしい。


「やべぇっ!」
  手に力を入れる。けど、うまく力が入らない。
  その手には携帯があった。待ち受け画面がメールの着信を知らせている。
  ・・・そんなのどうでも良い!
  慌てて、開いたままの鞄にかけよる。嬉しい事に準備は整っていた。
「ラッキィ」
  なるべく小さく、母に聞こえないように呟く。
「ほら、早く!」
  けど、聞こえてしまったようだ。なんて地獄耳。

  玄関でなんとか靴を履く。
  急いでるときに限って、なかなか履けないんだ。

  ノブに手をかけたとき、母が静かに僕を呼び止めた。
「何?」
  反射的に問いかける。
  静かに母は、僕にマスクを差し出す。
「ほら、貴方は肺が弱いでしょう。それに外は空気がすごく汚れているから・・・」
  母が差し出したマスクがまだ、風邪のときに使う普通のマスクでよかったと思った。


「いってきます!」
  ドアが閉まる。
  どこからか。いってらっしゃい、と声が聞こえた。



「よう! 今日も相変わらず遅いな、モララー君」
「五月蠅い。それと、『も』は余計だ」
  教室に入ったとたん、ギコが声をかけてくれた。

  僕はあまり目立たないせいか、友達は勿論、会話をする人すら少ない。
  だから、こうして声をかけてくれるギコに感謝している。
  ……照れくさいので口には出さないけど。

「でよ、昨日はごめんな」
  ギコのその言葉に耳を疑った。
  昨日、ギコは僕に謝るようなことをしただろうか。
「どうして?」
  即レスで聞き返した僕にギコは頬を赤めて言う。
「いや、昨日のメールのことでさ、途中で寝ちまってよ。……だから返信できなかった・・・」
  そんな深刻そうに誤られても、こっちが困るんですけど・・・。
「ううん、気にしてないよ。同じくらいに僕も寝ちゃったし」
  これは嘘ではない。
  どちらにしろ、互いに仕方がないと思う。
  メールが途切れたのは午前二時ごろ。どんなに寝るのが遅い人でももう寝ていると思う。

  僕はギコと高らかに笑いながら自分の席に着く。
「話し変わるけど、いい加減マスクとったら?」
  口元に何か違和感があるなと思っていたらマスクか。
「ありがとう、でも取らないよ」
  僕は皆と違って肺が弱いから。
  すぐに「ぜんそく」とか起こすし。
  外の空気、周りの環境には人一倍、敏感なんだ。
「・・・今日の体育、また休むのか」
  うん。ギコに分かるよう大きく頷いた。
  僕だって外を走り回りたいさ。皆と一緒に体育受けたいさ。
  でも・・・無理なんだ。

「でもね、その代わりに音楽は頑張っちゃうんだから!」
  ギコは、にっこり笑って頷いてくれた。




  とうとう体育の時間がやってきた。お腹がきりきり痛くなってくる。
  そこに、モナーとガナーがやってきた。
「よう、ヘボモララー。今日も体育休むモナか?」
「うっわぁ、ズルイわねぇ」
  二人はからかいの眼で僕を見つめてくる。僕は目線をそらすことしかできなかった。
  そして、皮肉げに笑いながら、教室を出て行った。
  全く感じの悪い兄妹だ。

「モララー!」
  ギコの声だ。
「どうしたの? ギコ?」
  作り笑いを見せた。どうしてここで君が出てくるの、そう思いながら返事を返した。
  ギコはしばらく間をおいて言う。いつもより潤った眼で。
「お前……。どうして言い返さないんだよ」
  もしかして、僕の心配をしているのか?
  いや、そんなわけないか。
  ギコ、君もあの兄妹と同じ人間なんだ。外見だけじゃ裏は分からない。
「だって、言い返したって無意味じゃないか」
「どうして」
  わからない。そんなの、わからない。
  その前に、君が僕を心配する理由も分からない。僕と君は他人でしょ?
  ただ、友達という見えない何かで結ばれているだけ。
  君は僕でも、僕は君でもない。君は君、僕は僕なのだから。
  じゃあ、ギコ。
「君にはわかるのかい」
「なにを」
「僕の気持ち。僕の心」


  勝手にしてろ。
  ギコは、それだけ言うと教室から出て行った。
  目の錯覚だろうか。君が泣いているように見えた。

  その反面、ドアを閉めた音が、とても冷たかった。痛いほど冷たかった。

「・・・先生」
「ん? どうした」
  頭痛がする。吐き気がする。
  息を大きく吸った。症状は余計に酷くなる。
「気分が悪いので早退してもいいですか」

  その後、先生がどう頷いたか。僕は知らない。
  僕はそのまま気を失ってしまったから。



  真っ暗闇の中、どこからかピアノの音が聞こえてきた。
  間違いない。
  この音は、家にあるピアノの音だ。
  たとえ、そうでなくても、まだ体育の時間だし、そうだとしても、ピアノは僕しか弾けないはずだ。

  おかしい。

  起きて、確かめに行こうかな・・・?
  そう思ったものの、身体は動いてくれなかった。何かに縛られているように動かなかった。


  今でも音は続いている。
  やめろ、やめろ。今すぐ弾くのをやめろ。そのピアノに触るんじゃない。
  ずっと訴えていた。心の中で。ずっと。
  やめろ。聞こえないのか。やめろと言っているんだ。さもなくば殺すぞ。
  聞こえるはずがないと分かっていた。けれど、心が勝手に暴走しはじめていた。


  音がピタリと止む。
  もしかして、聞こえちゃったのかな。
  冷や汗が背を伝った。


―ド 『レ』 ミ ファ ソ ラ シ―


「ただいまぁ~」
  僕がそう言っても返事を返してくれる人はいない。
  だって、お兄ちゃんは学校だし、お父さんお母さんはお仕事だもん。
「また一人か。まぁ、しょうがないよね。うん・・・」
  玄関の鍵が閉まっているかを確認し、床に上がる。
  そして、リビングの薄暗さに身震いした。こたつの上に置いてある置時計が十二時を知らせる。

  今日は学校がインフルエンザによる欠席者が多すぎるため、学級閉鎖となり、午前授業しかなかったのだ。今日の給食はカレーだったのに、なくなってしまった。残念だ。

  とん、と肩を叩かれた。おそるおそる、後ろを振り返る。
「うわっ! い、いつの間に・・・」
  そこに居たのはすごく大きな、女の人だった。僕のお姉さんにとても良く似ている。
  玄関の鍵は確かに閉めた。窓も全部閉まってるのに、どうして入ってこれたんだ。
「ごめん。突然で悪いんだけど、モララーって知ってるかい?」
  モララー・・・。
  あ、お兄ちゃんのことか。普段名前で呼ばないから忘れちゃうんだよね。
「うん。僕のお兄ちゃんだよ」
  そう答えると、女の人はにっこり笑ってくれた。それを見て、僕まで笑いたくなっきた。
  よかった。僕は一人じゃない。
「へえ・・・。君はなんていうの」
「モナー、小学二年生です。お姉さんは?」
  お姉さんは僕の口に指を当てた。
  いや、当てたというより口の前に持ってきた、の方がいいかもしれない。
「誰にも言わないって、約束できる?」
  僕はすぐに頷いた。約束事は一回も破った覚えはない。お兄ちゃんの携帯をいじったこととか、いたずらとかしたことは沢山あるけど、約束は破ったことがない。
「僕の名前はぎゃしゃ。お兄さんを虐殺するために来ました」
  僕? 男の人なのかな? でも、お姉さんって言っても何にも言わなかったし、女の人なのかな?
  とにかく、ぎゃしゃ姉さんは、お兄ちゃんをギャクサツしに来たって言ってるけど・・・。ギャクサツってなんだろう?

  わかった! 皆で遊ぶんだ! それでお友達を沢山増やすんだね!
「本当!? じゃ、僕もぎゃしゃ姉さんと一緒にギャクサツする!」
  ぎゃしゃ姉さんは小さく笑ってくれた。
  やっぱりね。皆で遊べばすっごく楽しいもん!

「そうだ、お礼にピアノ弾いてあげる。お友達になった記念に! 僕ね、お兄ちゃんからときどき教えてもらってるんだ! お兄ちゃん、ピアノすっごい上手なんだよ。聴く?」
「ピアノ?」
「そう、ピアノ。すっごくイイ音がするんだよ」
  僕はぎゃしゃ姉さんの腕を掴んで連れて行こうとした。けど、軽々避けられてしまった。そのときのぎゃしゃ姉さんは、何か慌てていたような気がする。ごめんなさい、今知り合った人に突然腕を掴まれたらびっくりするよね・・・。

  僕はピアノの前に座る。ぎゃしゃ姉さんは珍しそうにピアノを見ていた。
「そうだ、言い忘れてたけど、これからぎゃしゃ姉さんって呼んでいい?」
「どうしてかわからないけど、いいよ」
  やっぱり、しぃ姉さんと似てる。違うところも、もちろんあるけど笑ってるところとかすごく似てる。

  さぁ、弾こうか。
  曲は『エリーゼのために』。まだ覚えたばかりの曲だけど。


  弾き始めてしばらくしたときだった。

  やめろ、やめろ。
  今すぐ弾くのをやめろ。
  そのピアノに触るんじゃない。

  お兄ちゃんの声だった。
  でもお兄ちゃんは学校に居るはずだし、仮に家に居るとしても親が居ない今ならピアノを弾いていた筈・・・。

  まさか、ぎゃしゃ姉さん?
  それはないか。
  でも、すっかり僕のピアノに聞き入ってくれている。頬が赤らむのが分かった。初めて他の人に、自分のピアノを聞いてもらってる。こんなにうれしいことは他にあるのだろうか?

  しばらく弾いているとまた声が聞こえてきた。今度は怒っているような感じだった。

  やめろ。聞こえないのか。
  やめろと言っているんだ。
  さもなくば殺すぞ。

  手が自然に止まった。お兄ちゃんが怒ってる。物凄く怒ってる。

「君のお兄さんは凄いね。弟の君に向かって殺すなんていってる」
  ぎゃしゃ姉さんの目は、僕の顔を見ると一瞬迷いの色を見せた。
  僕が泣いていたから。
「・・・君のお兄さんは悪魔だ。でもこれから虐殺しに行くから、ね、大丈夫だから・・・」
「・・・そうだったね、これからギャクサツ、皆でするんだったね……」
  そうだよ、そうだよと、ぎゃしゃ姉さんは言う。そしてまた笑った。
  僕はその笑みに負けないように涙を拭き、力いっぱい笑った。


  さあ、ギャクサツするよ!

「さ、入るよ。モララー覚悟しろ」
  ぎゃしゃ姉さんはノブに手を掛けようとする。
「ま、まって。ノックしなきゃ」
  僕が言ったときにはもう手遅れだった。部屋のドアは全開になっていたから。
「モララー、今日こそお前を虐殺するぞ!」
  とんでもないことになりそうで、僕は廊下からこっそりと部屋を覗いてみた。
  お兄ちゃんは気分悪いのか横になっていた。
  早退したんだ・・・。これじゃ、ギャクサツできないじゃないか。
「すみませんが・・・。どちら様でしょうか?」
  お兄ちゃんは身体を起こし、ぎゃしゃ姉さんと向かい合う。
  ぎゃしゃ姉さんはその行動に一瞬たじろいだ。
「な、僕を知らないだって?」
「ええ・・・てか、モナー。お前何かしただろ」
  お兄ちゃんは僕にへと視線を変える。そして目つきを変え、こっちに来いと手招きする。僕は必死に首を横に振った。僕は何もやってない。気がついたらぎゃしゃ姉さんが家の中にいたんだもん・・・。
「いいから」
  そう言われては行くしかなかった。しぶしぶお兄ちゃんのところに行く。
  外見ではいつもの顔のお兄ちゃんだけど、内心は物凄く怒っているのがわかった。だって僕ら兄弟だもの。今、何を考えているのかはだいたいわかる。
  すると、お兄ちゃんは身体を屈めて僕の耳の傍でささやいた。
「お前、この人と何をした」
「え、何したって・・・ピアノとお話ぐらいしか・・・」
「ちょっと廊下で話さないか」
「誰と」
「お前と」
  心臓が高鳴る。
  すると、お兄ちゃんはぎゃしゃ姉さんに視線を移し、心からの笑みで言った。
「ちょっと待っててくださいね」
  その笑みは、僕の顔が視野に入るとすぐに崩れた。


「馬鹿野郎! 殺されでもしたらどうするんだ!」
  気がつくと僕は家中に響かんばかりの大声で怒鳴っていた。
  モナーの目が潤みだす。モナーは顔を両手で隠した。
「……ごめん、言い過ぎた」
  僕はしゃがみこんで涙を指でふき取る。
  でもモナーは顔を上げようとしなかった。
  きっと恥ずかしいんだな。そう勝手に解釈する。
「さ、部屋に戻ろうか」
  そう言いながらモナーの背中を押す。でも動かなかった。
「どうした?」
  問いかけてみても返事は無い。
  嫌な予感がした。
「お兄ちゃん……へんなのいる」
「へんなの?」
  小さなモナーの手はどこかを指し示す。その先を目線で辿ってみるが、そこには何もなかった。
  モナーの目を覗く。
「モナー?」
  瞳には光がなかった。闇一色の瞳だった。
  突然、モナーの目が白色に変わる。そしてそのまま僕の方に倒れこんできた。
  僕はなんとかその小さな体を受け止める。
「おい、モナー? おい!」
  モナーは薄っすら笑っていた。不気味だった。
「……ほら、あそこにも・・・いるよ・・・兄ちゃん……」
「わかった、わかったからもう何も話すな!」
  僕はモナーをそっと床に寝かし電話に駆け寄る。
  震える手で受話器をとり、あたふたと母の携帯番号を押してゆく。
「お願いだ、繋がってくれ……」
  しかし、プルルルルと数回コールした後、留守番電話に。
  最悪だ。どうしてこんなときに限って!
「くそっ!」
  受話器を放り投げる。受話器はそのままリビングの奥に転がっていってしまった。しまった、と慌てて後を追いかける。が、紙切れを踏んでしまいそのまま床に倒れた。
「くそっ! ちくしょう!」
  僕は叫んだ。半泣き状態ながらも、もう一度受話器を手に取る。
「もしもし、弟が! 弟が大変なんです!」
  そしてあらんばかりの声で助けを求めた。


「お前は馬鹿か! 軽い精神障害で救急車を呼ぶんじゃない!」
  頬に強い衝撃が走る。僕は反射的に歯を食いしばった。
「……だって、だって」
  若干腫上がった頬が邪魔して上手く喋ることができなかった。自分のその声に嫌気がした。
「五月蝿い! 親に口答えする気か!」
  どうやら父もそうらしい。だからもう一度頬を打たれた。さっきよりも強い衝撃に耐え切れず僕の体は床に倒れた。
  手足に力が入らない。
  立ち上がってここからすぐに逃げたかったのに、体は言うことを聞いてくれなかった。

  精神障害。
  空気の悪さのあまり頭がどうにかなってしまう病気だ。治すには綺麗な澄んだ空気の中で過ごさなければならない。もし、このままこの家で暮らしていたとすると楽物乱用者と肩を並べることになってしまう。だが、澄んだ空気などまだこの世に残っているだろうか。
「いいか? 世の中にはな、もっと重い病気の人が沢山いるんだ。今の時代、精神障害を起こす人間なんて沢山居るんだから、救急車を呼ぶくらいなら自分で何とかしろ。おい、もしかして学校で教えてもらってないのか?」
  父は僕を嘲っていた。

  泣きたかった。悔しかった。
  それが親の言うことなのかよ。弟を何だと思っているんだよ。
  精神障害者は助かる権利がないみたいな言い方するなよ。
  ただ思っていることしかできない自分の弱さに腹が立った。
  くそ、それじゃまるで、弟を見殺しに……。
「!」
  随分前の、遠くも近くもない過去が脳裏を過ぎる。
  僕は恐ろしくなって、反射的に立ち上がった。そしてそのまま、自分の部屋に駆け込んだ。

「随分と派手にかましていたね。君の父さん」
「五月蝿い。あんたまだいたのか。頼むから出て行ってくれ」
  僕はイスに座っている弟が連れてきた人物を部屋から追いだす。そして鍵を閉め、ベッドに倒れこんだ。
  頭の中には思い出したくなかった記憶が何度も映し出されていた。
  お母さんとお父さんが二人で話し合っていたときの記憶。たしか、保険金について話し合ったいたような気がする。ちなみに僕と弟は保険に加入している。
  目が潤んできた。
  ……馬鹿親。
  そう頭に浮かんだ。

「おーい、君にどんな過去があったのか僕にはわからないけど、どんなときでも他人に涙は見せちゃいけないんじゃないかい?」
 はっとして顔を上げる。追い出したはずのあいつがまたイスに座っていた。
  唖然とする僕を見てあいつは笑った。父とはまた違った笑みだった。
「あんたは幽霊か」
  僕は立ち上がってドアのノブを押してみる。もちろん鍵がかかっているので開くことはなかった。僕は顔をしかめた。
  確かにさっき、追い出したはずなのに……。
「自分で考えて」
  そう言うとそいつは立ち上がって意味もなく数回はねた。そしてドアに近づく。出て行くつもりなのだろう。
「……あんた、名前は」
  僕はそいつを呼びとめ、睨みつけながら問うた。
  でもそいつは大きな笑みを浮かべて言った。
「ぎゃしゃ」

  空耳だったのか。幻だったのか。
  部屋の中にはぎゃしゃの姿がなかった。
  今でも鍵はちゃんと閉めてある。

  僕が一回瞬きした瞬間にぎゃしゃは消えた。
  よくあるパターンだな、と思った。

  ふと、目に付いた携帯を手に取る。
「メールだ……」
  待ち受け画面に表示されたメールを受信した、という知らせ。
  受信boxを開いてみると、差出人不明のメールが一通。受信したのは今朝らしかった。
「気味悪りぃ……」
  どうせ迷惑メールだろう、と勝手に解釈する。
  そして、そのメールを削除しようとしたとき、メールの受信音が鳴った。
「し、しぃちゃんからだ……」
  しぃちゃんとは僕の同級生でもあり幼馴染でもある子だ。ちなみに、僕とギコが密かに想いを寄せている女の子でもある。
  緊張で震える手を押さえて『決定』ボタンを押して、メールを開く。
  画面いっぱいに現れたのは、今の僕にとってはとても暖かい文章だった。


―ド レ 『ミ』 ファ ソ ラ シ―

  この世界から植物は姿を消した。そういっても間違いではない。
  地球がそんな異変を見せ始めたのは、まだたったの百年前の話だ。
  さて、百年前にいた人たちはどんな未来を想像していたのだろうか……?
  空を走る車? 宇宙進出? ……輝しき未来?
  残念ながら、現在の様子だと、どれにも当てはまっていない。いや、今後も当てはまることなどないだろう。それどころか文化や科学は百年前とたいそう変わっていないのが現実だ。
  皮肉にも、かなり高性能で、いろいろなものに対応した清浄機が大量に生産されたが……。
「いってきまぁす」
  部屋の扉から現れた弟の笑顔。
  それは先日病気に犯されたものだとは考え難いほどの笑みだった。
「いってらっしゃい」
  僕は笑って声を返した。
  部屋のドアがゆっくり閉まる。そして数秒後には玄関からのドアの閉まる音が聞こえてきた。
「……さてと、仕事にかかるとしますか」
  未だに横たわっていた体をベッドから起こし、大きく伸びをする。今日の学校は休むことにした。理由としてはギコとのトラブルもあるのだが、未だに体の調子がよくない。でも親に言わせると休むほどのものじゃないらしい。でも僕は、勝手なことながら休みたかったので休むことにした。やはり、今度ギコと会ったときは間違いなくやり直すことは出来ないだろう。きっとギコは僕のことを嫌っているにちがいない。ギコと言い合って、気分が悪くなり早退。次の日は体調が悪いので欠席。事情を知っている人なら「ズル休み」と思うだろう。きっとギコもそう思っているんだ。
  不思議なほど静かなリビングに僕は立ち尽くした。親は二人とも早朝に出勤していったんだ。毎日、毎日のことだ。まるで僕らを避けてでもいるかのように。


  洗濯機を回し、台所に立つ。
  いつもは綺麗でピカピカの流しも、今日だけはぐちゃぐちゃでめちゃめちゃだった。
  流しに大量に積まれている皿は、僕からやる気だけを吸いとっていった。
  これらを全て僕が一人で洗う、ということを考えると、さらにやる気は失せていった。
  重くなった腕に鞭を打つ。やらなければいけないのだ。もしやらなかったら部屋に閉じ込められてもおかしくない。というわけで、僕は黙々と皿洗いに取りかかる。
大量の泡で身を包んでいるスポンジがなぜかうらやましく感じた。

  とん、とん。後ろの方で何かが落ちるような音がする。
もしかして万一のためにと持ってきた携帯が、落ちたんじゃ……?
  僕は反射的に視線をそっちに向けた。でも僕はそれを確認した後すぐに流しの中に視線を戻した。
  そいつは足音を立てながら僕の方にやってきた。
「おいおい、せっかく僕が君を虐殺しようと来てやったんだから挨拶ぐらいしてくれたっていいだろう?」
「……昨日今日と、僕は貴方を呼んだ覚えはありませんから。以上」
  僕は皿の山に目をもどした。それはぎゃしゃと関わりたくなかったというのもあるが、笑みを隠すためという理由の方が大きかった。僕に話しかけてくれる人が居ることに、つい笑みをうかべてしまう。
  ……あれ、待てよ。
  こいつ、どこからどうやって、家の中に入ったんだよ……?
  僕がこの家居るとしても母は毎日窓を厳重に閉めていた。いや、仮に窓から侵入したとしてもそんな物音は聞こえなかった。玄関もここに来る前に僕がちゃんと閉めた。つまり、今この家には入り口も出口もないということ。じゃあ、どうやって。
「さっきから何きょろきょろしてるの」
「な、なんでもないんだからなっ!」
  僕は慌てて視線を戻す。気がつけば全ての皿に泡があった。後はもう濯ぐだけだ。蛇口をひねって水を出す。すると突然ぎゃしゃが声を上げる。その声に驚いて思わず僕はぎゃしゃを見る。ぎゃしゃの顔は何か珍しいものを見たような、きらきらと輝いた目をしていた。気づけばぎゃしゃは僕の隣にいて蛇口をさも珍しそうに見ていた。
「すごい、水が出てる!」
  正直僕はドン引きした。こんな当たり前のものを知らないなんて……。
「ちょ、ちょっと……。もしかして、これ知らないの?」
「君が知っているというなら、僕も知っているよ」
「はい?」
  いったいぎゃしゃは何を言いたいのだろうか。とりあえずそれは聞き流しておくことにした。水の温度をぬるめにし、皿についた泡を洗い流す。そこから見えた本来の皿の色は水に反射した光によってさらに輝いていた。一つを洗い終え、すぐ右の乾燥棚に皿を置く。そして別の皿を手に取り、同じことを繰り返す。隣のぎゃしゃの輝いた目線がかなり気になった。その目線は間違いなく、僕の手の先に注がれている。いったいぎゃしゃは何者なんだ。全ての皿を洗い終わったころ、ようやく僕の決心がついた。
「ぎゃしゃ。君はいったいなんなんだ」
  僕は濡れた手を近くのタオルで拭きながら言った。そして、携帯の待ちうけ画面を見ながらぎゃしゃの返事をまった。
「……じゃあ、君もいったいなんなんだい」
  予想もしていなかった返事に僕は言葉を失った。そんなことを聞かれたってどう答えればいいんだ。
「生き物」
  とりあえず頭に浮かんできたことをぎゃしゃに言った。するとぎゃしゃはふーん、とだけ言ってリビングの散策を始めた。ああ、今度は僕がスルーされた。




何か言いたいことがありましたらドゾ↓
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