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「ただいまぁ~」
 僕がそう言っても返事を返してくれる人はいない。
 だって、お兄ちゃんは学校だし、お父さんお母さんはお仕事だもん。
「また一人か。まぁ、しょうがないよね。うん・・・」
 玄関の鍵が閉まっているかを確認し、床に上がる。
 そして、リビングの薄暗さに身震いした。こたつの上に置いてある置時計が十二時を知らせる。



 今日は学校がインフルエンザによる欠席者が多すぎるため、学級閉鎖となり、午前授業しかなかったのだ。今日の給食はカレーだったのに、なくなってしまった。残念だ。



 とん、と肩を叩かれた。おそるおそる、後ろを振り返る。
「うわっ! い、いつの間に・・・」
 そこに居たのはすごく大きな、女の人だった。僕のお姉さんにとても良く似ている。
 玄関の鍵は確かに閉めた。窓も全部閉まってるのに、どうして入ってこれたんだ。
「ごめん。突然で悪いんだけど、モララーって知ってるかい?」
 モララー・・・。
 あ、お兄ちゃんのことか。普段名前で呼ばないから忘れちゃうんだよね。
「うん。僕のお兄ちゃんだよ」
 そう答えると、女の人はにっこり笑ってくれた。それを見て、僕まで笑いたくなっきた。
 よかった。僕は一人じゃない。
「へえ・・・。君はなんていうの」
「モナー、小学二年生です。お姉さんは?」
 お姉さんは僕の口に指を当てた。
 いや、当てたというより口の前に持ってきた、の方がいいかもしれない。
「誰にも言わないって、約束できる?」
 僕はすぐに頷いた。約束事は一回も破った覚えはない。お兄ちゃんの携帯をいじったこととか、いたずらとかしたことは沢山あるけど、約束は破ったことがない。
「僕の名前はぎゃしゃ。お兄さんを虐殺するために来ました」
 僕? 男の人なのかな? でも、お姉さんって言っても何にも言わなかったし、女の人なのかな?
 とにかく、ぎゃしゃ姉さんは、お兄ちゃんをギャクサツしに来たって言ってるけど・・・。ギャクサツってなんだろう?



 わかった! 皆で遊ぶんだ! それでお友達を沢山増やすんだね!
「本当!? じゃ、僕もぎゃしゃ姉さんと一緒にギャクサツする!」
 ぎゃしゃ姉さんは小さく笑ってくれた。
 やっぱりね。皆で遊べばすっごく楽しいもん!



「そうだ、お礼にピアノ弾いてあげる。お友達になった記念に! 僕ね、お兄ちゃんからときどき教えてもらってるんだ! お兄ちゃん、ピアノすっごい上手なんだよ。聴く?」
「ピアノ?」
「そう、ピアノ。すっごくイイ音がするんだよ」
 僕はぎゃしゃ姉さんの腕を掴んで連れて行こうとした。けど、軽々避けられてしまった。そのときのぎゃしゃ姉さんは、何か慌てていたような気がする。ごめんなさい、今知り合った人に突然腕を掴まれたらびっくりするよね・・・。



 僕はピアノの前に座る。ぎゃしゃ姉さんは珍しそうにピアノを見ていた。
「そうだ、言い忘れてたけど、これからぎゃしゃ姉さんって呼んでいい?」
「どうしてかわからないけど、いいよ」
 やっぱり、しぃ姉さんと似てる。違うところも、もちろんあるけど笑ってるところとかすごく似てる。



 さぁ、弾こうか。
 曲は『エリーゼのために』。まだ覚えたばかりの曲だけど。




 弾き始めてしばらくしたときだった。



 やめろ、やめろ。
 今すぐ弾くのをやめろ。
 そのピアノに触るんじゃない。



 お兄ちゃんの声だった。
 でもお兄ちゃんは学校に居るはずだし、仮に家に居るとしても親が居ない今ならピアノを弾いていた筈・・・。



 まさか、ぎゃしゃ姉さん?
 それはないか。
 でも、すっかり僕のピアノに聞き入ってくれている。頬が赤らむのが分かった。初めて他の人に、自分のピアノを聞いてもらってる。こんなにうれしいことは他にあるのだろうか?



 しばらく弾いているとまた声が聞こえてきた。今度は怒っているような感じだった。



 やめろ。聞こえないのか。
 やめろと言っているんだ。
 さもなくば殺すぞ。



 手が自然に止まった。お兄ちゃんが怒ってる。物凄く怒ってる。



「君のお兄さんは凄いね。弟の君に向かって殺すなんていってる」
 ぎゃしゃ姉さんの目は、僕の顔を見ると一瞬迷いの色を見せた。
 僕が泣いていたから。
「・・・君のお兄さんは悪魔だ。でもこれから虐殺しに行くから、ね、大丈夫だから・・・」
「・・・そうだったね、これからギャクサツ、皆でするんだったね……」
 そうだよ、そうだよと、ぎゃしゃ姉さんは言う。そしてまた笑った。
 僕はその笑みに負けないように涙を拭き、力いっぱい笑った。




 さあ、ギャクサツするよ!



「さ、入るよ。モララー覚悟しろ」
 ぎゃしゃ姉さんはノブに手を掛けようとする。
「ま、まって。ノックしなきゃ」
 僕が言ったときにはもう手遅れだった。部屋のドアは全開になっていたから。
「モララー、今日こそお前を虐殺するぞ!」
 とんでもないことになりそうで、僕は廊下からこっそりと部屋を覗いてみた。
 お兄ちゃんは気分悪いのか横になっていた。
 早退したんだ・・・。これじゃ、ギャクサツできないじゃないか。
「すみませんが・・・。どちら様でしょうか?」
 お兄ちゃんは身体を起こし、ぎゃしゃ姉さんと向かい合う。
 ぎゃしゃ姉さんはその行動に一瞬たじろいだ。
「な、僕を知らないだって?」
「ええ・・・てか、モナー。お前何かしただろ」
 お兄ちゃんは僕にへと視線を変える。そして目つきを変え、こっちに来いと手招きする。僕は必死に首を横に振った。僕は何もやってない。気がついたらぎゃしゃ姉さんが家の中にいたんだもん・・・。
「いいから」
 そう言われては行くしかなかった。しぶしぶお兄ちゃんのところに行く。
 外見ではいつもの顔のお兄ちゃんだけど、内心は物凄く怒っているのがわかった。だって僕ら兄弟だもの。今、何を考えているのかはだいたいわかる。
 すると、お兄ちゃんは身体を屈めて僕の耳の傍でささやいた。
「お前、この人と何をした」
「え、何したって・・・ピアノとお話ぐらいしか・・・」
「ちょっと廊下で話さないか」
「誰と」
「お前と」
 心臓が高鳴る。
 すると、お兄ちゃんはぎゃしゃ姉さんに視線を移し、心からの笑みで言った。
「ちょっと待っててくださいね」
 その笑みは、僕の顔が視野に入るとすぐに崩れた。




「馬鹿野郎! 殺されでもしたらどうするんだ!」
 気がつくと僕は家中に響かんばかりの大声で怒鳴っていた。
 モナーの目が潤みだす。モナーは顔を両手で隠した。
「……ごめん、言い過ぎた」
 僕はしゃがみこんで涙を指でふき取る。
 でもモナーは顔を上げようとしなかった。
 きっと恥ずかしいんだな。そう勝手に解釈する。
「さ、部屋に戻ろうか」
 そう言いながらモナーの背中を押す。でも動かなかった。
「どうした?」
 問いかけてみても返事は無い。
 嫌な予感がした。
「お兄ちゃん……へんなのいる」
「へんなの?」
 小さなモナーの手はどこかを指し示す。その先を目線で辿ってみるが、そこには何もなかった。
 モナーの目を覗く。
「モナー?」
 瞳には光がなかった。闇一色の瞳だった。
 突然、モナーの目が白色に変わる。そしてそのまま僕の方に倒れこんできた。
 僕はなんとかその小さな体を受け止める。
「おい、モナー? おい!」
 モナーは薄っすら笑っていた。不気味だった。
「……ほら、あそこにも・・・いるよ・・・兄ちゃん……」
「わかった、わかったからもう何も話すな!」
 僕はモナーをそっと床に寝かし電話に駆け寄る。
 震える手で受話器をとり、あたふたと母の携帯番号を押してゆく。
「お願いだ、繋がってくれ……」
 しかし、プルルルルと数回コールした後、留守番電話に。
 最悪だ。どうしてこんなときに限って!
「くそっ!」
 受話器を放り投げる。受話器はそのままリビングの奥に転がっていってしまった。しまった、と慌てて後を追いかける。が、紙切れを踏んでしまいそのまま床に倒れた。
「くそっ! ちくしょう!」
 僕は叫んだ。半泣き状態ながらも、もう一度受話器を手に取る。
「もしもし、弟が! 弟が大変なんです!」
 そしてあらんばかりの声で助けを求めた。




「お前は馬鹿か! 軽い精神障害で救急車を呼ぶんじゃない!」
 頬に強い衝撃が走る。僕は反射的に歯を食いしばった。
「……だって、だって」
 若干腫上がった頬が邪魔して上手く喋ることができなかった。自分のその声に嫌気がした。
「五月蝿い! 親に口答えする気か!」
 どうやら父もそうらしい。だからもう一度頬を打たれた。さっきよりも強い衝撃に耐え切れず僕の体は床に倒れた。
 手足に力が入らない。
 立ち上がってここからすぐに逃げたかったのに、体は言うことを聞いてくれなかった。



 精神障害。
 空気の悪さのあまり頭がどうにかなってしまう病気だ。治すには綺麗な澄んだ空気の中で過ごさなければならない。もし、このままこの家で暮らしていたとすると楽物乱用者と肩を並べることになってしまう。だが、澄んだ空気などまだこの世に残っているだろうか。
「いいか? 世の中にはな、もっと重い病気の人が沢山いるんだ。今の時代、精神障害を起こす人間なんて沢山居るんだから、救急車を呼ぶくらいなら自分で何とかしろ。おい、もしかして学校で教えてもらってないのか?」
 父は僕を嘲っていた。



 泣きたかった。悔しかった。
 それが親の言うことなのかよ。弟を何だと思っているんだよ。
 精神障害者は助かる権利がないみたいな言い方するなよ。
 ただ思っていることしかできない自分の弱さに腹が立った。
 くそ、それじゃまるで、弟を見殺しに……。
「!」
 随分前の、遠くも近くもない過去が脳裏を過ぎる。
 僕は恐ろしくなって、反射的に立ち上がった。そしてそのまま、自分の部屋に駆け込んだ。



「随分と派手にかましていたね。君の父さん」
「五月蝿い。あんたまだいたのか。頼むから出て行ってくれ」
 僕はイスに座っている弟が連れてきた人物を部屋から追いだす。そして鍵を閉め、ベッドに倒れこんだ。
 頭の中には思い出したくなかった記憶が何度も映し出されていた。
 お母さんとお父さんが二人で話し合っていたときの記憶。たしか、保険金について話し合ったいたような気がする。ちなみに僕と弟は保険に加入している。
 目が潤んできた。
 ……馬鹿親。
 そう頭に浮かんだ。



「おーい、君にどんな過去があったのか僕にはわからないけど、どんなときでも他人に涙は見せちゃいけないんじゃないかい?」
はっとして顔を上げる。追い出したはずのあいつがまたイスに座っていた。
 唖然とする僕を見てあいつは笑った。父とはまた違った笑みだった。
「あんたは幽霊か」
 僕は立ち上がってドアのノブを押してみる。もちろん鍵がかかっているので開くことはなかった。僕は顔をしかめた。
 確かにさっき、追い出したはずなのに……。
「自分で考えて」
 そう言うとそいつは立ち上がって意味もなく数回はねた。そしてドアに近づく。出て行くつもりなのだろう。
「……あんた、名前は」
 僕はそいつを呼びとめ、睨みつけながら問うた。
 でもそいつは大きな笑みを浮かべて言った。
「ぎゃしゃ」



 空耳だったのか。幻だったのか。
 部屋の中にはぎゃしゃの姿がなかった。
 今でも鍵はちゃんと閉めてある。



 僕が一回瞬きした瞬間にぎゃしゃは消えた。
 よくあるパターンだな、と思った。



 ふと、目に付いた携帯を手に取る。
「メールだ……」
 待ち受け画面に表示されたメールを受信した、という知らせ。
 受信boxを開いてみると、差出人不明のメールが一通。受信したのは今朝らしかった。
「気味悪りぃ……」
 どうせ迷惑メールだろう、と勝手に解釈する。
 そして、そのメールを削除しようとしたとき、メールの受信音が鳴った。
「し、しぃちゃんからだ……」
 しぃちゃんとは僕の同級生でもあり幼馴染でもある子だ。ちなみに、僕とギコが密かに想いを寄せている女の子でもある。
 緊張で震える手を押さえて『決定』ボタンを押して、メールを開く。
 画面いっぱいに現れたのは、今の僕にとってはとても暖かい文章だった。


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