皇帝


手を伸ばすと痛いくらいの冷たさに驚いて、思わず身を引いた。
城内で用意される水に慣れたニースルーには久しぶりの感触だった。
みぞれ混じりの日に、冷たい水で法衣を洗っていた子供のころの記憶が駆け抜けていく。
さらさらと流れるガルガンダ連峰からの雪解け。ここは2区の山岳寄りに違いない。

「随分と速いのね、びっくりしちゃった。」
「その気になればもっととばせるのよ。」
自慢げな表情を見るのも久しぶりな気がした。

「今日は審議会の日なのに。」
「一日位いなくても大丈夫よ。それに諮問される方はきっと助かったと思っているわ。」
皇帝が不在となれば空気も緩むのかもしれない。
いない方が気が楽というのは分かるが、少しさびしく思う。
「トップに立つものは形を違えどみな孤独なもの」と、サーザイトは言っていた。

「さーてと、えい!」
バスケットに杖を振るうと、椅子とテーブルが飛び出し、クロスが追いかけ波打つようにテーブル這って覆う。
その上にパンやら茶器やらが次々と配置に付く。

今朝、玉座の間に入った時にさらわれた。
「今日一日、ニースルーはお休みです!」
待ち構えていたヨネアがそう言い放つと、数疋の反物が一斉にニースルーに襲い掛かり、ぐるぐる巻きにされ箒に乗せられたのだった。
今思えば、その場にいた者たちの中にはさして慌てるそぶりを見せない者も居たから、最低限の根回しを行っていたに違いない。
そう考えると、騒ぎの中で側近の口は「ごゆっくり」と動いていたような気もしてくる。

「強引なんだから。」
「こうでもしないと何時までたっても行けないでしょう。約束だしね。」
約束・・・そういえばそんな事も言ったっけ。
戦いの中での気休めのつもりのふとした会話だった。

ヨネアは言葉を大切にしていると思う。
ふとした言葉や何気ない言葉を妙に覚えていることがある。
それから、自分よりも執着するタイプかも知れない。自分も相当なものなのだが・・・・・・


「ねぇ、ニースルー。あなた何時まで遊ぶつもりなの?」
「えっ?あなたが連れてきたんじゃない!?」
「違うわ。皇帝のことよ。」
「?」
「いつまで皇帝をやってるの?」
「遊びじゃないのだけど・・・」
「あなた、子を産むつもりはないんでしょう。なら、後継者はどうするつもりなの?」
「そんな先のことまで考えてないわ。」
「そんなに先じゃないわ。ゴートは生まれた時から次期王として育ち、王としての教育を受けたはずよ。長い時間をかけているわ。」
「私は、育ちも教育もないわ。」
「戦争で勝ち取った初代と、座して受け取る二代目以降では大きく違うわ。
人が皇帝と認める根拠が必要だと思うの。」
「ヨネアの言う事は確かね。考えておくわ。」
「いいえ、出来るだけ早く迅速にさっさと次を用意しないと。」
「なんでそんなに急ぐの。私もまだやる事はいっぱいあって時間が要るわ。」
「いいえ、ニースルーは早く退くべきだわ。だって皇帝なんて誰がやっても同だもの。」

千人の皇帝がいれば、千の統治があり国がある。だが、千の全てに同じこともある。
それは、皇帝が行うことに「正しい」保障など何も無いと言うことだ。
皇帝になって一番恨めしく思ったのは、神様は何にも助言してくれないという事だった。
「俗事は俗世の者に任せるべきです」などと言ったこともあるが、人の統治とはなんと心許ないのだろう。
それでも、皇帝として持てる情報と判断力で皇帝らしい決断をしてきた。
後はサイコロに委ねるだけである。
それならば、それなりの判断力や思考力があれば自分でなくても出来るだろう。
個々の判断は違うかもしれないが、どちらが正しいかなど分からないのなら結果は後付けでしかない。

「ニースルーを見ているとね・・・
暇で悩む頭の無い人にでも任せれば良いと思うの。」

なんとなく、向いていないのかもしれないと思ったことはあるけれど、こういったものは誰もが避けられない悩みだと思っていた。
(もしかして私・・・本当に向いてない!?)

「と言う訳で、さっさと後継者を決めて、さっさと譲位してね。」
そう言うとヨネアはパンを掴み食べ始める。
「あっ、ニースルー!見て見て!すごくおっきい虫♪うわ~~~きもーーーーい。」
「・・・・・・(口からパン屑飛ばしながら喋らないで欲しいなぁ。)」

戦乱の時代に自らの勢力を立ち上げ、戦いに打ち勝ち皇帝となったニースルーは、
宗教改革的なうにゃららな政策とか、光魔法による治療機関の補助金とか教育機関のほにゃららな制度とか何もせずに譲位しました。
おわり。


  • なにこれ -- 名無しさん (2020-10-03 09:43:55)
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最終更新:2020年10月03日 09:43