気が付くと、僕は知らない天井を眺めていました。
いや、そんなことはどうでもいいですね。
ここに来てから壁も床も扉も知っているところなどありません。
見飽きたものといえば、自らを慰める自分の右手ぐらいなものです。
僕は借り物の寝間着を着せられて、病院のベットの上に寝かされていました。
母さん、あなたに会う日が遠のきましたね。正直いって早くそちらに行きたかったです。
見渡すと、消灯台の上に僕の食事らしいトレーが置かれています。
いったい何時の食事でしょう。冷え切ったお粥なんて手を付ける気にもなりません。
なんだか頭がボーッとするのですが、恐らく極度の酸欠状態に陥った影響でしょう。
そんな、ふらつく体を抱えながら病室を出てみると、一台のベッドが看護師に押されて通りかかりました。
そこに寝ていたのは、なんだか不思議な女の子でした。髪が青く、真っ赤な目をしています。
一体だれの趣味で染めちゃったんでしょうか。なんだかよく判りません。
彼女は寝たままでジロリと僕を睨み、そのまま運ばれていきました。
これが、ファーストチルドレンである綾波レイとの出会いです。
そして僕はサードチルドレン。ということはセカンドが存在するわけです。
まあ、その人にはいずれ出会うこともあるでしょう。
「これを全て頭に入れなさい。エヴァの出現位置、非常用電源、回収スポット、それから、」
リツコさんです。病室から出てきたばかりの僕に情け容赦ありません。
「エヴァの電源構造、各種計器の読み方、基本操作など、このマニュアルに全部書いてあるから。」
そして、ドンと机に置かれた巨大なファイル。僕は尋ねました。
「あの、いつまでに」
リツコさんは何も答えず、黙ってキーボードに向かいタイプを続けています。
僕は何も言えずにその場を立ち去るしかありませんでした。
リツコさん、ずいぶん気が立っているようです。
後から聞いたのですが、僕が意識を失った後にエヴァンゲリオンが制御を失い、勝手に動き出したそうです。
発進の段取りを無視して格納庫の扉を破壊し、無理矢理に地上へ飛び出して目標に猛進。
街を踏み荒らしながら突進して、使徒を瞬殺したそうです。
そのスピーディーな展開のお陰で僕は死なずに救出されたようですが、はっきり言って大きなお世話です。
使徒に勝ったことよりも甚大な被害を生んだことが問題になっているようで、
何故か僕が原因であり、しかもその責任は勘弁してやっている、みたいな変な状態になっています。
僕はワザと操縦席で溺れたと言うんでしょうか。でも、怖くてそんなことは言えません。
翌日、さっそくエヴァの操縦訓練開始です。
あの分厚いマニュアルを一晩かけて読んだのですが、覚えられる筈はありません。
病み上がりの頭を抱えて、字を読むだけでも困難な状態だったのですから。
今度はプラグスーツというものを着用させてくれたので、全裸にならずに済みました。
しかし、操縦席にはやっぱり水道水です。ですが、呼吸用のゴムホースが垂れ下がっているだけまだマシです。
「では、直轄回路に切り替えて。」
「3番からBのルートで射出。現在位置は?」
「次にプログナイフの装備。」
まったく覚えられていないのに出来るわけがありません。
ていうか、たとえ覚えても練習無しで出来ることなのでしょうか。
「出来ない理由は何?覚えて来いと言ったわよね。」
理由なんて言えません。ゴムホースを咥えてどうやって喋れというんでしょうか。
言葉で僕を責め立てるだけではありません。
彼女の指示にたいして、僕が何もしないで居ると体に凄まじい衝撃が走ります。
どうやら電流を流しているようです。母さん、僕は犬か何かだったんでしょうか。
「早く覚えないと内蔵バッテリーを全てあなたに費やすことになるわよ。」
そう言うリツコさんの後ろに、ミサトさんの姿がチラリと見えました。
ただ、厳しい目つきでジッと僕を見ているだけで、僕を助けようというそぶりも見せません。
長い時間をかけて行われた僕の拷問もやっと終了しました。
トイレの時間も貰えずエントリープラグに缶詰状態だったので、
エヴァから降ろされた後、慌てて用を足しに走り回る羽目になりました。
慣れないNERV本部の中でようやくトイレを見つけて、個室でホッと人心地付いた時のこと。
二人の女性の声が聞こえてきました。
どうやら僕は間違えて女子トイレに入ったようです。
「まったく、これだから子供相手に仕事するのは嫌なのよ。ミサト、そう思わない?」
「そうね。」
「覚えてないなら覚えてないとハッキリ言うことも出来ないなんて。仕事をするということを何も判っていないわ。」
「確かにね。」
「ミサト、あなたも甘い顔をしては駄目よ。ああいう子供はつけあがるし、体に判らせないとどうしようもない。」
「判ったわ、リツコ。」
「やーれやれ。トイレに行きたいならそう言えばいいのに。挨拶も禄に出来ないし。」
そう言いながら去っていきました。
母さん、母さんが社会に出たときも体に電流を流されたんでしょうか。
仕事をする大人の世界の厳しさというものを、今日ほど実感した日はありません。
トイレを間違えて入ったことについて、トラブルにならなかったことだけは不幸中の幸いでした。
僕の寝泊まりする場所はNERV本部内の宿直室が与えられました。部屋の中はなんの飾り気もありません。
病院で使われているようなパイプのベッドとスチール製の事務机や椅子が置かれています。
トイレが個室でなかったら、まるで牢屋です。いや、もっと非道いです。なんと窓がありません。
安いホテルの一室に見えなくも無いのですが、テレビや冷蔵庫なんていう贅沢品もありません。
何をどうしようと考えたのですが、出来ることと言えば例の分厚いマニュアルを読むことだけ。
これから先、持ってきていたウォークマンだけが僕の唯一の楽しみになりそうです。
それを聞きながらマニュアルに目を通していたのですが、どうにもお腹がすいて仕方がありません。
実は社員食堂を使って良いことになっているのですが、訓練が終わった頃には既に閉まっていました。
朝まで我慢するしかない、と考えていたところ、誰かがドアをノックしました。やって来たのはミサトさんでした。
「食べなさい。」
そう言って僕に手渡したのはコンビニのビニール袋。中身は、揚げ物の弁当とペットボトルのお茶でした。
それに加えてビールとおつまみが入っていたのですが、それはミサトさん自身の分みたいです。
僕はもぞもぞとお礼を言い、椅子に座って弁当を広げて食べ始めました。
ミサトさんはベッドに腰を下ろして、ビール片手で弁当を食べる僕を見守っています。
彼女は何も言いません。ニコリともしません。
なんだか僕は悲しくなって、食べる手を止めてすすり泣きをしてしまったのですが、
ミサトさんは、フーッと疲れ切ったような溜息をついて僕を慰めようともしませんでした。
そして彼女は、まだひいていなかったベッドのシーツを掛けてくれて、そのまま無言で去っていきました。
最終更新:2007年03月19日 07:43